Dugup?編集部が尊敬する、ペンネーム Nda Ha Satomohiさんからご寄稿いただいて「象徴国家論への旅 - 第二回」をお届けします。まだ旅への準備段階ということですが、知をいきいきとさせるための水とはどういったものであるのか?が語られているように思います。旅には水が必需品!情報過多(情報砂漠)の今(ど真ん中)を生きる私たちには必読に思えます。是非お楽しみください!第一回目はこちらのリンクよりご覧ください。
三相の現実性を語る手前で
N'da:前回は、構想という他の想像一般とはいささか異なる性格をもつ特殊想像の、その特殊性を考えるときに、想像一般における頭のなかでの自由性に比べて、それを具体的な活動に移すことを含む構想の不自由性に着目し、そのあいだの距離感を考えると構想の特殊性を理解しやすいということを話しました。ことばとしては前者の想像することの自由性にある現実感はリアリティ(reality)であり、後者の構想することの不自由性にある現実感はアクチュアリティ(actuality)であるという区別の仕方も示しました。さて、ここでこの対話相手のコンビは「とうごくん」と「けんたくん」に交代するわけだけれど、幸いこれまでの内容は了解してくれている表情がみてとれるのでひきつづき先に進めます。そこでリアリティとアクチュアリティという二相の現実を、リアリティが虚も含んだ現実、アクチュアリティが実の現実といった具合に単純化してとらえるとすると、その虚と実ということが一般的に考えられるそれとはいささか違っているようだということがみえてきます。この対話での話しことばも、対話の記録としてのこの書きことばも、頭のなかで想像したことを、ことばという具体的なかたちにして発露し、それを介して他者とやりとりしているわけですから、どちらもまさに構想という営みです。でも、先の虚実という点でいうと、それぞれのことばの性質はどのようにとらえることができるだろう?
とうご:話しことばはこうして話すそばから消えていきます。まさに虚の性質をもっている。だから、それを実として記録する録音や速記をとっています。まさに文字どおり、文字、書きことばのかたちにして残しています。書きことばには実体性というのか、実としての性質が基本にあるのはあきらかではないでしょうか。
N'da:翁がわざわざこの問いかけをしたのは、まさにそうした応えを予想してのことだったのだけれど、もしアクチュアルな現実が実、リアリティの現実が虚を多分に含むという分け方をするなら、話しことばのほうはリアリティが豊かで、書きことばはアクチュアリティに富んでいると整理できるだろうか。
虚実反転
けんた:なにかしっくり来ない気がします。
N'da:どのあたりかな?
けんた:少なくともいま対話している話しことばでのやりとりは紛れもなくひとつの現実を共有している活動のなかでのことで、アクチュアリティに充ちているように感じます。でも、この対話を記録した書きことばになると、それはあきらかにこの現実を写し取ったものであって、それを表現するときにはたとえば、対話の様子を映した写真なども添えたり、書きことばではなく話しことばを積極的に使って対話の臨場感をつくりだそうとしたりします。つまり、現実感を演出しようと工夫します。まさに先にあった「事実上の現実をつくりだそう」とする。すると書きことばはリアリティを意識したうえに立っているように思えます。
N'da:そのリアリティの追求は、書きことばが性質としてアクチュアリティに欠けるためそこを補おうとせざるをないからだね。それは書きことばが負っている宿命のようです。するとこうもいえる。話すそばから消えていく話しことばのほうが実の性質をもち、その実をなんとか残そうとする書きことばのほうはおのずと虚としての性質をもつ、と。
とうご:なるほど逆転ですね。でもどうして語るそばから消えていく話しことばのほうが実で、アクチュアリティがあるんだろう。
N'da:現にいま、話していて、どうですか?
とうご:そうですね。実際にいま、話していて、と、この状況をいうわけですけれど、これが実際の現場ですからね。
N'da:なにの実の際にいるのだろうか?
けんた:いま考えて、話し、聞き、また考えて、話し、聞くということをやりとりしているこの実の場のぎりぎりのところ。
N'da:ですね。考える、考想という想像から構想への移りゆきが現になされているその場の端点にいる。しかもそれは単に立ち会っているのではなくて、その想像と構想の循環そのものを営んでいる。別のいい方をすれば、その活動の主体となり、話しことばという客体をつむぎ、放り、受け、さらに互いの想像を働かせるというかたちで主客が一体化しつつ、その全体が変容していくただなかにいる。この変容は生そのものですね。話すそばから消えていくというのも、まさにそれが諸行無常の生という営み、新陳代謝そのものゆえのことで、その虚に真実性をたたえたアクチュアリティが感じられるわけです。生(なま)のことばというとすこし品を欠いた表現だけれども、もとより生(なま)なものがかかえるグロテスクなものはアクチュアルな現実性にはつきものですね。
けんた:そのグロテスクなところというのは、言い間違いとか失言とか、放言といったことにもつながりますか。
N'da:そうだね。どれもふつうは否定的な意味をもって語られるけれど、それが生じるのはまさに状況や偶然の巡り合わせがなすところで生(なま)ゆえのアクチュアルな現実ですね。フロイト的にいえば、現実原則から外れた快楽原則が姿をあらわしたことになりますが、この現実原則の現実はアクチュアルではなくてリアリティのほうですね。そのリアリティを外してアクチュアルなふるまいが顔をのぞかせる。それは自然なエロスの発露、どれも本心といわれるものの吐露でしょう。
とうご:言い間違いには本当はそう言いたいという気持ちが潜んでいるということかな。
N'da:いつもそうだとは限らないけれど、フロイトが例に挙げる失錯行為には、それはこの場では言ってはいけないという強い抑制が働いていると、かえってそれがはっきりしたイメージとして形成されてしまい、そこに不慣れな場での緊張感があったりするとそのテンションを緩めようとするあまり、いってはならないと意識していた抑制まで解けてしまい、つい失言してしまうといったところだから、本心はいいたくて仕方がないということではないはずだけれど、そういうエナジーもある場合には当然それも後押しするでしょうね。フロイトのいう備給、エナジーチャージだね。いずれにしても話しことば、会話は生きものだけにそうしたさまざまな状況の交錯のなかで制御の効かない発露があることは自然な成りゆきですね。程度はさまざまにしてもそれを整序して、諸々を忖度しながら再構成するのが他方の書きことばですね。
さらにその書きことばの受け手、読者になるとその対話が生まれた場からは完全に時空が離れてしまっている。でもその外れたところにしてはじめてこうして対話のコンテンツは実体化する。だから、そこで生まれるリアルは、対話内容の現実ではなくて現実「化」、リアリティの形成であって、まさに事実上の現実ということになりますね。
とうご:書きことばがこうした対話の記録ではなくて、だれかひとりの著者の想像、考えたことを直接書き出した文章としてのそれであったときも話しことばのようなアクチュアリティには欠けるでしょうか。また、話しことばであれば、どのようなものにもアクチュアリティがあるといえますか。
N'da:いまここで語った二相のあきらかに異なることばが引き受けた現実は、それぞれのことばに特有の性質なのか、という疑問ですね。特有ではないと思える例を示せますか?
とうご:たとえば、今日あったことを日記に書くとしたら、少なくとも書きつけているそのときには過去の振り返りの内容だとしても、まさにアクチュアルな行為であるように思えます。また、話しことばであっても、いまこの対話を録音した内容を再生して聞くときはアクチュアリティに欠けるように思いますが。
話しことばの記録や再生は書きことば
N'da:だから、そのとき現実感を増そうとして大きなスピーカーにつなげたり、映画館のようなマルチスピーカーで臨場感をつくりだしたりもするかもしれないけれど、それはどこまでいってもリアリティを増すための行為であって対話そのもののアクチュアリティは再現できない。そもそも誰もが話しことばを録音して聞くということが日常化したのは前世紀の 最後の四半世紀以降のこと、つまり長い歴史のなかでごく最近当たり前になった人為的な出来事であって、それは話しことばの生態としては反則ともいえる仕業だったともいえるでしょう。この人為の仕業はなにをしたかといえば、話しことばが生来もつ語るそばから消えるという生を写し取り、標本づくりをしたということです。昆虫標本や動物の剥製と同じで、外見は見事に残したがそこにもはや生命はない。命のことばが標本化されたのが録音声であって、それは話しことばを媒体に記し落とした書きことばです。だから見た目、というか聞く耳には話しことばであっても、その性質は?
とうご:書きことば。
N'da:そう。オンデマンド講義なんてものがあって、繰り返し聞ける、早送りして聞ける、などといって便利に思ったりもするけど、それは何度でも読める、飛ばし読みもできる、という書きことばゆえのことであって、そのコンテンツには話しことばとしてのリアリティはあってもアクチュアリティは失われている。
けんた:では、実際の教室での講義にだけあるアクチュアリティとはどういうものでしょう。学生としてはただ座って聞いている分には、まして大講義室のスピーカーから流れてくる声を聞いている分にはコンピュータ画面での講義と変わりないと感じてしまいますが。
N'da:現に毎日のようにその場に居合わせている君らから、その問いがあらためて発せられるというところに、アクチュアルな講義体験がなされていないという問題性を感じてしまうわけだけれども、つまりは、講義なんて全部オンデマンドでいいと感じさせてしまうような講義をしていることが問題なんであって、それをオンデマンドにしてしまったらその問題もろとも封じ込めてしまうことになるね。つまらないコンテンツ、ガラクタが増えるだけだ。仮にただ教科書を読んでいるだけの講義であるとしても、それが生きている人間の発話、つまり「命の話しことば」であることのアクチュアリティは、突然その彼が脳卒中でその場に倒れたら、そのあとに起きることを想像してみればわかるでしょう。そのとき学生たちは「ああ、終わった」と口々につぶやいて講義室を後にするなんて光景を思い描く人はいないはずです。でも、オンデマンド講義はどうですか。なんか一所懸命しゃべっているその最中でも、聞いている側は指先ひとつでやめてしまえるでしょう。そのとき、ああ殺しちゃったなんて罪悪感を感じる人はいない。むろん相手も痛くもかゆくもない。いうまでもないけれど音声/映像の彼は彼の似像、実質、01信号の書きことばであって、彼自身ではない。アクチュアルな講義では脳卒中なんて稀ごとを想定しなくても、先に「ただ教科書を読んでいるだけの講義」ということをいいましたが、翁らの大学時代にはその教科書の存在自体が稀少なものでもあったので、それはそれで意義はあったのだけれども、いまの時代、誰もが手にしているようなそれをただ読んでいるだけであれば、そのリアルボイスは確かにアクチュアリティに欠けるとはいえる。それでもそうであればその場で「つまらない講義はやめろ」と叫んでみればよい。そのあとにどういうことが起きるか、予測不能な結構振れ幅のあることが起きるだろうことは間違いない。だから、アクチュアルな講義であることの実感は掴めるし確認もできる。
そうしたことを実際にはしないとしても、それができるという場に立ち会っているという現実にいることはワクワクしませんか? それが教室での講義のアクチュアリティですよ。つまり、その場は生きている。オンデマンド講義で同じことをしても、当然なにも変化しない。つまり、はじめから死んでいる。それをオンデマンドのほうがマイペースで学べるなんて思ってしまったら、もう大学での学びを放棄しているということだね。
けんた:大学での学び、それは生命ある活動が交錯する場での学びということですね。
N'da:そう。でも単にそれだけだったら、街に出て歩き回ってなにかを学びとるということでも同じことはできる。それが大学であったら、街中では得られないなにがあるのか、ということですね。それを意識して臨むことは「大きな」学びをするうえでの第一条件といってもいい。そうすれば個々の授業はまさに一回性のものとなって活きてくる。
とうご:では、日記に書きつけるときのアクチュアリティについてはどうですか。
N'da:その疑問をもつということは、日記の場合は話している感覚に近いと思っているからですね。たぶんその経験のとおり、書きことばとして書きつけているけれども、その際にしていることは発話の代替であって、実質は話しことばになっているのでしょう。とくに日記は他者に読まれることはほとんど想定しないから、推敲などもせず、話しっぱなしとかなり近くて書きっぱなし、だからこれには少なくてもそれをしている当人にとっては書きことばの姿をした話しことば、としてのアクチュアリティがある。それだけに、のちのちは当人だけがもちうるアクチュアリティに戸惑い、処分してしまう、ということも当たりまえにあるわけです。でも仮に日記の書きことばが他者に読まれるとすれば、当人がそれを書いた時空を共有しているわけではないから、読者としては日記特有のリアリティは感じ取れても当人が感じたほどのアクチュアリティは感じ得ないはずです。だから、当人が思うほどの戸惑いは生じないと思うけれど、逆に読み手に勝手に生じるリアリティは制御できないから、むしろその戸惑いは生まれるでしょうね。ご存じのことと思いますが、貴重な「対話篇」を数多く残した、かのプラトンは師のソクラテスが知を愛する行為として、話しことばが交わされる対話こそが第一であって、書きことばは二番煎じにすぎない。だから、自分は著作はしないと語りそれを貫いた。いわば書きことばに対する話しことばの優位性なり真実性を語っていた。プラトンはそのことを繰り返し書き残しています。ソクラテスという人は徹底してアクチュアルに生きた人だったのでしょうね。プラトンはそのことをリアリ ティ高く伝えたかった。むろんそれをするには書くことが必要で、まさにそのおかげでいまわたしたちが彼らのことを知ることができているように、プラトンの書きことばのリアルがあってのことです。だから、うかつに話しことばの優位性といったことは語れないし、このあとすぐにこの点は別の角度からおさえたいと思いますが、いまはとりあえず話しことばがその特性としてもつアクチュアリティの高さに焦点を絞りましょう。ともかく、そのようにしてそれから2千数百年も経たここにいたっても「今に生きることば」などとしてソクラテスかく語りき、さてその想いは?、などという問いができる。でもそのことは、当のソクラテスにとっては迷惑千万。
とうご:標本を見て生きているなんていうな、と、、
N'da:そう語ったと思うけれども、たぶんそうした後世の解釈に対して当のソクラ テスは自分が直接あなたの相手をすることができないから、書くことはしない、というところに力点があったように思えるのです。まさにこれはresponsibility、反応すること、応じること、それができないからしないという誠実性をあらわしてい るともいえます。このことばは「責任」なんて訳語があてられてそれこそそのことばを狭い意味に拘束してしまい、そのために「応じない」ことを第一義的に無責任と解釈してしまったりもするけれど、それは偏狭というものですね。ここはそういうことではなく、もっと積極的な意味で、とても請け合えないからしないんだといっているわけです。
つぶやき
翁はかかわっていないけれども、今ではつぶやきツールというのがあっていろい ろと困ったことも起きているようだけれど、あれはもともと破壊的性格をもっているから、巻き起こされることは当然の帰結であって、かかわらないことがなによりと思っています。 昨今はつぶやくという行為自体が、あれによって変容してしまったのかもしれないけれど、もともとはひとりごとで、ぼそぼそ発話することでしょう。なぜ、ぼそ ぼそいうのかは他者に伝えることを少なくとも表向きの目的にしていないから。だから、あれはそれを他者に伝えてしまっている点で掟破りでしょう。もうひとつは聞き取れないようにしているにせよ、つぶやきは発話行為、話しことばでの営み。だから、話すそばから消え散る。つぶやいてある種の想像上のわだかまりを自分のなかから吐き出す、いわば排泄の役割を果たしている。だから、それが書きことばとして残ってしまうことはもうひとつの掟破り。環境破壊ですね。そんな排泄物をみせあうツール、場だから、当然、汚辱まみれになる。よって、これは「できるけどしない」という選択をもって救われる原発と同次元のとても下劣なテクノロジーの典型だと思います。仮に古代アテナイがそっくりいまここにタイムワープしたとして、プラトンがそこに「きょうソクラテスはこうつぶやいた」などと書き込んでいたら、師にひどく叱られたことでしょう。ここで関連もあるので、先の講義の話しのつづきで、オンデマンド講義は先のとおり、書きことば講義だからアクチュアルではないということをみましたが、それではオンライン・リアルタイムの講義ならその現実性はどうなのか、ということも確認しておきたいね。
けんた:オンライン・リアルタイムの講義なら、たとえば、先の極端な例として教授が突然具合悪くなって倒れたら、講義はそれと同時に凍りつくでしょうし、突然だれかがマイクをオンにして「つまらない講義はやめてくれ」と発言したり、逆に「実に同感!!」とか大声を出したりすれば、講義の流れはアクチュアルに変化するので、そこでの講義は話しことばとしてのアクチュアリティがあるといえそうですが、、、。
オンライン・リアルタイムのアクチュアリティ
N'da:まさにそこですね。さきの例示にもとづけば、そう思えるわけです。でも、であるとすれば、先の話は中途半端でした。ここであらためて問いたいと思います。それはアクチュアルという現実感なのだろうか。翁はオンデマンドなんかは大学の授業のあらたなスタイルとしては論外だし、オンライン・リアルタイムの講義にしても、まったくコミットしたいと思わないんです。オンライン・リアルタイムのリアルは単に同時性、同期的というリアリティはあって、そのリアルは共有できるけれど、それは頭の認識のうちにかぎられています。それに対してその場の身体の現実感、つまりアクチュアリティはそのリアルについていけない心身分離が起きて、同一性の欠如感に苛まれることになります。これは精神的には見当識喪失に近くて、発信するほう、受信しているほう、双方に起きます。講義をしている、あるいは受講し視聴している自分がいることになっている場と、現に今自分がいる場が一致していないので、大袈裟にいえば、時空間や状況の把握が適切にできなくなるということです。
だから、オンライン・リアルタイムの講義や講演の演者をすると、終わったあとの空虚感がものすごく大きい。これはものすごく失敗したときの講義の徒労感に近くて、その失敗というのは同じ教室にいながらにして学生にほとんど何も伝わっていないことが感じられたときのそれです。それでも同じ時空を共有していたことは確かなので講義をしたことのアクチュアリティは身体感覚の疲労感とともに心身に受けとめることはできる。だから、ただ反省すればよいだけなんだけれども、オンラインでははじめから身体が別の場所に切り離されているのでその乖離は埋めようがない。他方、自分がオンラインセミナーなどで視聴者の側になった場合は、まるで自分が多動性症候群の子どものようになり、間もなく画面から離れ周囲を掃除したり、お片づけをしたりしてしまいます。きっと講義している人が突然倒れても、ありゃたいへん、とは思うだろうけれど、これから急いでその場に駆けつけなきゃ、なんて思えないでしょう。誰かが大声でとんでもない発言をしても、よくやるよ、といった感じで、実際の講義室でその場を共有しているときにそれがあった場合のような感覚は受けないと思う。つまり、映像のリアリティは伝わり、ただ今の話しことばが交わされても、見ていることのアクチュアリティは伝わらず、交わされることばも場の共有、つまり身体を共にしていないから、ことばの認識だけになり、リアルタイムとはいえ、先の録音再生した話しことばと同様の性質を帯びてしまう。
けんた:さきにあった生(なま)でない、ということですね。アクチュアルとは生 (なま)の共有か、、、。 その生(なま)感覚ということで先の例をつなげれば、「つまらない講義はやめろ!」と大声をあげるとしてもそれが教室の大半の学生がうつ伏していて、こちらからみえる他の学生のPCの画面にはいろいろな動画やSNSのやり取りが見えていて、教室のいたるところでは雑談しているという光景に囲まれながらの代弁であったとすれば、それは実にアクチュアリティがあるけれでも、オンラインリアルタイムでの受講生として自分の部屋から事実上、独りでテレビカメラというのぞき穴から視聴している状況、しかもどうやら300人の受講生がアクセスして聞いているらしいなかで、みんな黙って聞いているのだから、ひどくつまらなくても。それはただ独り自分のせいで、他の人はそれなりにおもしろく聞いているのかもしれないとも思える。それに実際つまらなければ教室に座っているわけではないから、いくらでも別のことができる。だから、わざわざ「つまらないからやめろ」と大声をあげる必要もない、というところですかね。
N'da:そう、それは講義者も学生それぞれもまるで異質なアクチュアリティをもってただオンラインにあるということだから、なんちゃって現実を過ごすはめになっている。見方をかえれば、それは「つまらん、やめろ」という声があがって至当な状況でも、意図的ではないにせよ、そうした発声が封じられているということでもあるから、強権・専制的な仕掛けとしてはリアリティ追求による疑似アクチュ アリティ構成的なメディア・テクノロジーの危険性にもつながっているところですね。
とうご:それはN'da翁がコロナの緊急事態宣言のときもおっしゃっていましたね。
N'da:インターネットがテレビ系電波メディアに接近してそれを呑み込んでいくなかで、テレビからの情報がますますクールメディアとしての性格を強めて一元的に単純化させたセンセーショナルな情報を一方的、命令的に伝えてくる窓としての機能を強めてしまっていて、とても気になるところです。時の首相が「緊急事態宣言を発出します」というのを流す。その鶴の一声で、マスゲームや軍隊の整列のように、さまざまなひとたちがいるなかであんなにも皆が一緒の行動をしてしまうという現実に遭遇して背筋が凍りつく思いをしました。おい、ちょっとまてよ。どこが緊急事態なんだ。もなにもないかたちで素直に動いていってしまう。まあ、この話はどんどん逸れそ うですから、大きな問題だけれども、機会をあらためましょう。
けんた:高校生の頃、ハーバードやスタンフォードをはじめ、世界の大きな大学で講義をオンラインで視聴できる仕組みがどんどんできて広まっていると聞いて、ぼくらはそういうものを使って単位をとって卒業するようになるのかな、と思いましたが、それは期待どおりにはならないということですか。
N'da:いま話したことも含めて、その「期待どおり」ということがどういう期待なのか、もう一度問い直してほしい。
けんた:確かに脳天気な発想で世界の一流どころといわれる大学の授業を居ながらにして受講して、それで単位をとれて卒業できるとしたら、というところでしたが、すぐれた研究をたくさんしている大学に学生にとって学びになる授業があるとは限らないという現実や、大学の授業は講義だけでは成り立っていないという現実を知れば、選択肢が広がりはするけれども、それで充ち足りた学びができて卒業できるとは到底いえないことはよくわかります。
とうご:でも、それがわかっていながら、どうしてそういう仕組みをわざわざつくろうとするのだろう。
N'da:君らがこれから先に展開していく人生のなかで、その問いかけはとてもだいじだね。なぜなら、翁たちの人生は必要に迫られて、なくてはならないからつくるしかないとか、するんだということがいっぱいあったからよかったけれども、そうしてそれらが充たされた現代は、なくてもいいのだけれど、あればいいよね。とか、いまのように選択肢がまた増えるのはいいじゃない、とか、そういうことがほとんどになってしまっているからね。でも、その「いい」という判断が結構皮相的だから、できたあとに、これってほんとにいいの? なんてことにもなる。でもそんなとき、結果じゃないよ。プロセスだよ、ここまであれこれやったことが身になり、やがてはべつのかたちで開花するもんだ、なんていって納得してみる。でもこれは生きる時代や場所によらず普遍的なことかな、、、。ところで、ソクラテスのことに戻るけど、彼の知を愛する行為というのはとくに「知る」ということについて知ろうとする営みであったようだから、自分よりもよく知っている人、真に知っているという状態ということを確認したいという思いで、とりわけいろいろな形而上の観念をめぐって他者との対話に挑んだ。これを知っているか、どう知っているか、そうなのか。こうじゃないか。といった具合にその場、そのときかぎりのアクチュアルな想像と構想の活きた循環を繰り返し体験し、それをつうじて、まさに知っていこうとする行為を愛でた。なんであれ、生きている実感、生きがいということを感じながらを生きるとすれば、あとさきのことはどうでもよいことになるのでしょう。それは先史以前に、ものごとを深く考えた人たちの基本的なライフスタイルであったのではないかな。
書きことばがなかった時代の現実感
とうご:なぜ先史ですか?
N'da:歴史は書き残されたことをつうじてその存在を知り、共有する事実になるわけだから、それよりも時間的には遙かに長かったはずの先史時代、つまり歴史以前は書きことば以前、つまりほぼ、あるいは完全に話しことばだけの時代のことだ。つまり、人間の条件として不可欠な言語のデフォルトは、長い期間をつうじて話しことばであったことは間違いない。ここに話しことばの本源性、それに対する書きことばの二次性、新参性は、書きことばの誕生以後にしても、わたしたちがもつふつうの時間感覚からすればきわめて長くつづいてきたといえるでしょう。
現在でも世界では識字率ということばが通用することでわかるように、今に至っても書きことばの新参者としての身分は続いている。でも、だからといってそこではまともな言語コミュニケーションができないわけでも、文化や文明が成立していないわけでもないわけです。つまり書きことばの新参性にはおまけ的、付録的性格が伴いつづけている。だから、文化や文明の「文」とは第一には書きことばのそれではなく、刹那の命しかもたないかげろうのような話しことばのことであることもみえてくる。だいたいこの日本でさえ、翁は20世紀半ばに生まれましたが、子どもの頃は字が書けないという大人が周囲に当たり前にいました。でもそうしたおじちゃんもよくものを知っていたし、ふつうにあたりまえに暮らしていました。そして「やっぱこれからの時代、勉強はしておいたほうがいいよ」などといってくれました。テレビに登場する有名人でもサインを求められると面倒だから「俺は字を書けない」といって断っていた人がいたようですけれど、そういわれても別におかしいとは思わず「あ、そうなんだ」と思えてしまう時代でした。だから、文化と文明の成立と発展にあたってその「文」は、話しことばをベースにした会話や語り伝えのなかに紡がれる命ある文であるということは、書きことばがその文化に入り込んで浸潤し、いまやもうその働きなしにはありえない文化に過ごしているわたしたちの時代の人にとっては見失われがちな歴史的事実になっているのではないでしょうか。もっともそうではなくて、話しことばだけの日常に、書きことばが入り込んでこその文化、文明なのであって、それ以前は先文化であり先文明なのだといったハイカルチャー的な見解はあるでしょうけれども。ただ、ここで留意して欲しいのは、文化や言語の本源は話しことばであるからといって、それがもつ(老舗)特権的な価値をそこに認めよう、というのではない。話しことばをもたらす主観や主体にこそ人や魂、あるいは知の基盤があるといったことを示唆しようというのでもありません。だいたい20世紀後半に青年期を過ごし学んできた翁らの世代は、ここいら辺のやりとりと解体が現代思想の話題でもちきりだった時を過ごしました。大学生のころに講義室で出逢い学んだレヴィ=ストロースやソシュールといった人たちの論じたこと、いわゆる内なる思考や声の文化に対する持ち上げとその鮮度感には惹かれたものでした。
けんた:鮮度感?
N'da:そう、いま振り返ってみれば、その当時、つまりそれは1970年代のころだけれども、その頃はインターネット以前、世の中にパソコンが顔を出しはじめ、えっ、それ一体何するもの、だった時代です。だから、書き文字の文化は日常的にはそれこそ特権的な位置づけにあって、もの書き即文化人だった。いまだ何度も蘇る三島由紀夫が市ヶ谷で割腹したのがまさに1970年。ノーベル文学賞を得た川端康成が自殺したのがその2年後。筋や論をもって文章が書けることは文字が綴れることの先にある特殊能力としてあるようで、まともな文章が書けることは漫画が描けることと同様、いまもって決して人としてのジェネリックスキルなんかではないと思えますが、そういう点で、羨望対象としてあった書きことばと文化の担い手、あるいは文化といえば西洋、といった「つくられた時代的表象」のなかに育ちました。そういえば、このころにわかに日本のいわゆる文化?創造?企業の一翼を担った、いまや名称さえ風前の灯火となってしまった西武百貨店の堤清二さんも小説家としてのご自身にずっとこだわりをもっておられたし、やたらと「西洋」ということばがお好きだった。話しが逸れたね。でも池袋で育った翁は成長期も老年期もまさに自分と同期してしまった西武という存在は他人事には思えないところがあってね。先のソクラテスの強弁以降、つい前世紀の半ばに至るまで、そして言語学や文化人類学といった新興の学問分野においても文化の基礎にあるのは声だ、話しことばだ、書きことばなんていうものはずっと後からやってきた新参者にすぎない、という認識を聞き慣れない概念や熱帯奥地の文化のようすも持ちだしながら広めていた。それを大学生のときに講義室で聞いたわけです。そもそも初等教育以降の学びや受験の営みをつうじて子どもながらも、書きことばこそ王道、という思いが固定観念として染みついていました。そこに、いややっぱ声だね、というもの言いには痛快な鮮度を感じたのです。当時の有名なCMのキャッチフレーズに「スカッとさわやかコカコーラ」というのがありました。おそらく今よりもずっと多くの人が飲んでいたコークとともに、話しことばの称揚にはまさにスカッとするシズル感があった。それはその言説に含まれていた何でも西側諸国に学び、「本場の」といえば西欧というステレオタイプを穿つものでもあった。だから、東洋に生まれ育った自分たちにとってはなおさら、ということもあり ました。そうしたなかで日本車が米国で売れ出し、経済において「ジャバン・アズ・ ナンバーワン」と持ち上げられ、だんだんいい気分になっていったのでした。
前世紀末におきた世界観の打ち壊し
でも、翁らが大学院に進むころになると、すでにそういうことじゃないんだ、という言説が出てきていたことを知ることになります。そのポストを語る新参の思想がまさにそうであったように、新参だから本物ではないとか、二次的なもの、あとづけ、付録、おまけにすぎないといった事実にせよ、揶揄にせよ、そうした解釈のことばによって彩られて図式化され構造化されるものの見方は、いかにもわかりやすく世界をとらえるには便利でも、それは再びこれまであった先入観をクルッと反転していることにすぎず、あいかわらず以前同様、世界観を曇らせ、あるいはただの別の色を使った上塗りでしかないという危機を訴えかけるものでした。 西洋中心、人間中心の問題、はそこばかりが中心なのか、という問いではなく、 中心という捉え方そのものへの問いだ、と。西洋ばかりでなく東洋だって、人間ばかりでなく環境も、となると、じゃあどっちがだいじなんだとか、どっちが優先されるのかという問いを生み出してしまい、それはものごとをこれまでどおり、わかりやすくして論じやすくはするけれど、その構造にとらわれて抜け出せない点では堂々巡り。だから、そうした構造化、図式形成からの逃走なり乗り越えとして構造にひびを入れるポスト構造やポストモダンの流れが少なくとも学生たちにとってはほとんど時をおかずに押し寄せてきたのです。その先頭に立ったジャック・デリダのデコンストラクション、脱構築は当時の20世紀後半、とくにその最後の四半世紀の時代状況にあっては、次第にゆきづまりつつあった経済先進国の資本体制のあらゆる側面にリストラクチャリング(リストラ)を要請する呼び水ともなるような標語としての力をもった構想として作用しました。デコンストラクションは想像する主に根源があり、そこから発せられる話しことばは、そのもととなってる想像のなかの観念作用の直下にある。それに対して、書きことばは書き手当人にとってもその聞き取り結果で、どこまでもオリジンのコ ピーでしかない、といった価値づけを含んだ老舗図式に向けられました。
とうご:原版やオリジナルに対する価値意識は現代でも「本物」という観点から当たり前のようになされますが、それを超えた向こうには何が見渡せるのでしょう。
---次回(3)につづく ---
プロフィール
N'da Ha Satomohi(ンダ・ハ・サトモヒ) 太平洋戦争敗戦から十数年が経ったころ、この世に生を享けた。その経緯から、どうも南方戦線あたりで死にきれずにさまよった学徒の英霊がやっと故国にたどり着き転生したのではないかという思いを胸の内のどこかに潜ませてきた。それなのに高度経済成長の時代に少年期を過ごしバブルに興じて甘すぎる人生を歩んできてしまったことへの自戒がある。人生晩期に至り、いったい自分はなにを学びえたのか、同時にその黒板を背にしてなにを伝えられえたのか、と、より深い自省の念にかられ、これからの人たちのためのこの国について、あの原アフリカへの憧憬とそ こからのパワーを借りた化身となって、ここにその構想を語り始めているものなり。
なお、ここでいう原アフリカとは、人類の起源はアフリカにあり、そこから20萬年にわたる遺伝変異と移動のグレートジャーニーを経て、いまの肌色をあたまに多種多様になったわたしたちがいるという定説を一応踏まえて、その多種多様さの必然的交錯としての偏見といさかいに呆れつつ、おい、もういい加減にせい、と叱る大本祖先ンダムとンヴのふたりが立つ大地のことを指している。
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