Dugup?編集部が尊敬する、ペンネーム Nda Ha Satomohiさんからご寄稿いただいて「象徴国家論への旅 - 第三回」をお届けします。感想を書いてしまうとネタバレになる部分もあるのでここでは伏せますが、編集部としてはシビれる内容でした。必読です!第一回目、第二回目がまだの方、是非ご覧ください。

【前回のおしまいの問い】
とうご: 原版やオリジナルに対する価値意識は現代でも「本物」という観点から当たり前のようになされますが、それを超えた向こうには何が見渡せるのでしょう。
複製時代からオリジナル多重化時代への価値変転
N'da: ものを複製する技術がテクノロジーの進歩によって格段に高まり、それがとめどなく広がり、また複製/コピーというより、オリジナルそのものの多重化ともいえるクローン、あるいはとくに今世紀に入ってからはオリジナルがそもそもデジタル信号なので、それをコピーすることはもともとのコピーではなくて、同一物の多重化、増殖になるというありかたも現実のものとしてあたりまえになりました。つまり、わたしたちはそれまでの慣例のまま、デジタルにおいてもコピーと呼ぶし、たとえばコンピュータのファイルについても複製とかコピーというボタンを押したりコマンドを使うので、コピーしていると感じてしまうけれど、デジタルの世界ではこれは少なくともコピー機で複製するような原版を写し取るコピーではなくて、原版そのものの増殖生成であるわけです。これは複製技術時代と地続きの状態で進行したので、その革命的革新性は一般にはほとんど意識化されていませんが、実際はモノのありかたにとっては衝撃的な変容がもたらされたわけです。むろん、一部の領域、つまりデジタル以前の時代で原版、本家本元が必然的にもった特権性に既得権益を得てきた世界では、この事態への対応は死活問題に直結したので、典型的にはオーディオ・ビジュアルのとくに民生機器を扱う業界ではそのコピーと呼ばれつづける原版増殖機能をできなくするとか、機能的に回数制限をかけるとか、躍起になったわけですが、長い目でみれば、これはデジタルの登場でそのありようの基本性質が変容したことに対する抵抗的対応ですから、過渡的な現象といえるはずです。つまり、数十年はかかるのかもしれませんが、前時代に得ていた権益を保続するための一時しのぎ、悪あがきといってもよいようなことです。やがてデジタル・ネイティブな世代が世の中の中核を担うようになれば、いわゆる「これってこうじゃね」という根本からの価値転換が起きるはずです。
それによって本家本元にそれゆえ唯一性という意味での特権的性質があるという見方はもはや現実の場、とりわけデジタル転換が可能な世界においては通用しなくなるし、アナログ世界でもデジタルとのかかわりの程度の応じて通用しがたくなるということですね。いや、コピーだらけになったからこそオリジナルの意義や価値が再認識されるとか高まったという見方も語られるけれど、これもデジタル以前と以降の過渡期にあっての認識だいえると思えます。つまり複製と原版なり原典との差異があきらかに実態的にあって語れた前世紀的な話、オリジナル特権は複製技術が発展し出し、発展途上にあった時期に力をもった話です。いまや歴史上の企業となって第一線から退いた観があるXEROXが、技術も会社もブランドとしても高く評価されていた時代、複製はあきらかに複製であり、それ以上のものでなかった。でも象徴的にはそのXEROXのStarと呼ばれた非実用的なワークステーションのインターフェイスに惹かれたS・ジョブズがMacintochをいわば本歌取りして商品化し、世界の人びとが手にするiPhoneにまで展開したのは、アナログ/デジタル変換の過渡期にあって類い希な、それこそ複製技術の賜物だったといってよいと思います。ただ、この場合の複製が賜物といいうる根本にはこれも西田幾多郎先生のことばを借りるとフィットするわけなのだけれど、まさに「働くものから見るものへ」という構想過程そのものの真髄にあたる行為的直観を商品に具現化させたところにあるということです。これはいわば夢としてつくられた表象がそれはあくまでまだ夢の話だけどね、としてしまう現実一般的了解を超え出て、夢を徹底して現実にしてしまう仕方での模倣であり複製です。だからAppleが好んで使うことばでいえば、ものすごくアメージングなことになった。最近のAppleはそのことばを連呼すれどそれがなくなってしまったようだけどね。ジョブズという天才がなしたアメージングな複製がただの複製・ものまねと質的にまったく異なっていたことを、ちょうど対照的にうまく理解するには同時期のMicrosoftでB・ゲイツがなしたことをを振り返ってみるとよくわかります。そもそも事は彼のもとで商品化されたパソコンOSであったMS-DOSがCP/Mの複製だったことから始まっていますが、より馴染みのあるところでいえばWindowsもMacの複製でした。それでももとの流れからすればStarになるからジョブズの怒りも徹底できなかったけれど、それはどちらであれ、そこでゲイツが「働き」にでた方向は、商品を見たわけではなく、市場を見たという点がジョブズと質的に違っていた点です。わかりやすく極端にいえば、おそらくゲイツにとって商品というのは、製品に対する質とかこだわりとか理想といったことはまったくの二の次で、第一はマーケット。だから、それが動く装置のことはほとんど気にならず、どこのメーカーのなんでもよかった。そのほうがたくさん売れて市場を占めることになりますからね。とにかく商品がたくさん流通し剰余価値をつけて自分に戻ってくることが第一だった。Microsoftの基本姿勢はずっとそうです。ちょうど松下幸之助の時代の松下電器産業ですね。それに対してジョブズはその時代のソニーの井深大さんに当てはまると思えます。でもこれはわれら世代にはなるほどと思えても、若い人にはかえってわかりにくいアナロジーか。どちらにしてもここでこうした例を取りあげたのはオリジナルがはじめの一歩としてその唯一としての特権性をもつとか、原作者への敬意は別とすれば、原作一点性ゆえの特権ということはフィクションであるのに、その作者の存命を超えてもなおこだわりつづけるなら、おとぎ話のなかに生きることを選ぶようなことになるということです。
オリジナル特権や正当化特権の終わり
そのか: 作者の著作権ということは一般的に当然の権利として認められていますが、それは原作者の特権ということとちがいますか。もし同じなら、オリジナル特権というのは一般的な見識だと思うのですが、どうでしょう。申し遅れましたが、ここから今回はわたし「そのか」と「しょうた」くんが翁との対話を引き継ぎます。よろしくお願いします。
N'da: はい、よろしくお願いします。すでにこれまでの話からわかってくれていると思いますが、ここでの対話は世の中の常識はこうですよ、といった学校が生徒の行動統制のために言って聞かせるようなことを相互に確認し合うようなことをしているのではありません。さらにはむろんマスコミがそのマス、つまりあらゆる意味で大衆向けのコミュニケーションをするようなことを目的にしているわけでもないわけです。ちょうど今、そのかさんが「一般的な見識」といわれたので、この確認をしているわけですが、おそらくそれが一般的な見識であると判断された根拠は背景に学校やマスコミをつうじた常識的知識形成に大きく依拠しているのだと思います。それはここで今話題にしている「特権性」とも関係していることですが、いわばその大衆、とくに民主的マジョリティ、あるいは学校化により正当化され正統化されている一般知識形成がもつ強度な特権に対する危機感。これこそがここでこの対話をしている大きな動機のひとつになっている、その点をあらためて確認してもらいたいと思います。
しょうた: 学校化によって正当とされ、それゆえに正統とされている一般知識形成というのはぼくらが高校までに学んだ知識ということですね。
N'da: その学校時代の十数年間、人生の発達過程のなかで中枢神経が生理的にも一番、整備がなされていくなかで、「これが正解」として正当化され、そこからずれることは当然、自然にありえてもそれは非正統になると暗黙のうちに脅かされつつ一般化される知識です。どんなに正解として一般化されようと、その正しさは可能性のひとつにすぎない。でもそこに正答特権ともいうべき特別な権利、正当性が付与され、その結果、世の中の大方もそれに沿う結果になっているので、あとから学ぶ側もそれを当たり前のこととして選ぶことになる。心理学の行動理論がいうところの正の報酬による強化ですね。○がつけられ誉められる、優越感ももてるといったことだけなら単純なオペラント条件づけの範囲の報酬ですが、ここでいう特権とはその報酬をできるだけ生み出すことが、自分の希望するところでさらに学んだり仕事をしたりしていくうえでの正当性、権利として機能する仕組みにしている、あるいはそのようにみせているところを指していっています。
特権の正体
この特権は本来、知識そのものがもつ性質とかその価値とはまったく異なることで、あとから人が勝手に付け加えている正当性であることが問題の焦点です。資格などといった構成物はその典型です。つまり特権というものはどんなに特別であろうと基本的にフィクションだということです。で、フィクションだとして、だからどうなんだ、ということになるわけですが、つまり作り事なんだから、笑い話の戯れごととしては喜んだり楽しんだり恥ずかしながら使ったりすることとしてあってもよいけれど、それを巡って真剣になにかを問うたり、振り回したり、係争ごとになったりするのは洒落にならないということです。たとえば、著作権というのは日本語では著作についての権利と読めてあたかも原著作者の自然権であるかのように解釈する気配もあるけれど、英語ではご存じのとおりこれはcopyrightで、このほうが原義としてわかりやすい。つまり、複製権ですね。現実的にいえば、この権利は商売上、複製して販売するうえでの権利関係を明確にするための必要性に迫られてつくられたフィクション、つまり「そういうことにしよう」と決めたことです。だから著作という制作活動ないし活動者に対してその直接の行為や行為者としての正当性を認めるようなところに由来したものとは違っている。でも著作権ということばには後者の性格を後解釈で忍ばせているところが感じられるのでいっそう怪しさが募ります。ここで深入りしたくなるところだけど、するとそれこそ今回の対話は著作権のことだけで終わってしまいそうだから、ここらでもとに戻しますが、ともかくわたしたちの日常生活のなかではこの著作権というのがなにやら原著者の特権性を語るものとして侵してはならない人権でもあるかのように受け取ってしまい、無用な制約をわたしたちに課していることもしばしば見受けられるのでこの点はすこしこだわりました。また、冒頭で語ったアナログ複製技術ではなくてデジタル原多重化技術ということの基本からすれば、電子出版というデジタル出版についてはもはやcopyrightという権利、その正当性はコピーそのものがなくなっているのだから、存在していない。それが死滅したところからの出発というありかたが必要になるということです。従来の出版という仕組みのなかにはそのように出発できるプラットホームはないし、つくることもむずかしいでしょう。思考のパラダイムシフトが要請されるからで、その点でいえば、これは出版と呼ばないほうがいいのかもしれません。ともかく上っ面をかすめるような了解ということが世間の常識とか一般的な見識と考え得るような了解ごとは多々あるので、そのあたりはすこし丹念に考えてみるようにしようということです。
そのか: 確かにデジタルの世界ではオリジナルが特別な存在として価値をもちつづけることはないようですけれど、わたしたちの世界はすべてがデジタル化されたわけではないですから、他方のアナログの世界ではとくにオリジナルとコピーを比べたときのように、オリジナルに対する本物志向は残りつづけているように思えますが。
本物のありよう
N'da: まず注意深くありたいのは、デジタルの世界ではオリジナルが特別な存在としての価値をなくすと受け取られたとすれば大きな誤解です。特別な存在ということに込められた意味にもよるわけですが、たぶんオリジナルの一者としての稀少性、それゆえにもちうる特権性ということを特別な存在、その価値といわれているのでしょうが、そうであればそのとおりですが、一方でデジタル世界ではオリジナルの無限多重化、ほとんど瞬時の増殖、それゆえの占有がもたらす特権性ということがその性質ゆえに成り立つ可能性が高くなります。これはアナログ時代にはありえなかったことなので、これも気づかれにくい点ですが、いわば複製観に囚われていると、このオリジナルがもつ特別な存在として価値は活かされずに眠ることになるでしょう。また、まさにオリジナルに対する本物志向は残りつづけているといわれたように、そうであるとすれば、アナログ世界では原版一点しかないのでその一点性をめぐる付加価値が原版そのものの質的価値を遙かに凌ぐ価値をもたらすことが、とりわけ美術品などはその塊なわけですが、デジタルオリジンの本物は反対に誰の手にもオリジナルがゆきわたる可能性をもつことになります。だから、もしその本物ということがそれがもつ質の高さ、すぐれものということを意味するとすればごくわずかな人の悦びではなく、世の中全体の質を高めて皆がその本物の恩恵に浴せることにもなるわけです。ところで、アナログの世界でのオリジナルに対する本物志向というと、どのようなものが頭に浮かびますか。そしてそれはどのような本物性なのでしょう。
しょうた: ぼくはクルマに関心がありますが、最近はピカピカの新車ばかりではなく、前世紀後半、一世を風靡したといわれる名車をリストアしたクルマに魅力を感じています。それこそ星の数ほどつくられてきたクルマのなかで、やはりかつて人気を博したクルマにはそれだけの理由があって、名著と呼ばれる古典が残りつづけるような普遍的な価値、たとえば美しさとか性能のバランスとか、時を経たことによる風合いがそこに感じ取れるからではないでしょうか。
N'da: なるほど。
そのか: わたしの場合は古民家です。これも再生利用の話ですけど、やはりオリジナルがもっていた構造のよさは、残せる素材とともに残して全部新建材の新築では味わえない家に暮らすというのに憧れています。それはかつて確かなものとしてあったものは継承して暮らし継いでいくといった伝承の意義も感じられそうからかなと思います。
N'da: ふむふむ。どちらも実践的にリストア車を日常遣いしているとか、いま古民家に住んでいますという話ではないので、いい方はよくないかもしれないけれど、そういうあり方として謳いあげられている映像や話などから思い描かれた感もあることが第一に気になるところだけれども、そこのところは抜きにして、いずれも典型的なバージョンアップの話ですね。モノはどんなに丁寧に使っても必然的に痛むから使いつづけるには修復が欠かせない。名画も名陶もそれは免れえないから、オリジナルがオリジナルのままというのは実際にはありえない。とすればオリジナルというのは基本的にその始原のことを指す観念どまりのことであって実は実体性がないといえないだろうか。経年劣化を含めてのオリジナルだともいえるかもしれない。でも丁寧に修繕を加えて長く愛用ないし保存してきました。といったモノはオリジナルを超え出ていて、それが経てきた時間と経緯、維持、努力、つまり人びとの手間暇がかけられた総体に対する価値までが語られている。さらにまた自分もそれを継いでだいじに使っていきたいという意志も加味されて語られている。すると、いうところのオリジナルがもつ価値というのは観念上考えうることとしてはあるけれど、その当のものが実際に今もここにあるのか、と問うなら、もうないといわざるをえない。デジタル・オリジンならそれがもつ無数性もあってそこらじゅうにありうるけれど、アナログ・オリジンとして現にあるのは観念だけだ。つまり、アナログ世界でのオリジナルとはまさに形而上のことだ、ということになる。
三相の現実性、その第三
さて、ここでちょうどよいところに来たのですが、少し前に話題にした三相の「現実性」の話。この対話はリアリティとアクチュアリティのほかにもうひとつの現実相があるといったあとで。一旦横道に入りここに至っていますが、ここでその分岐点に舞い戻ることができました。つまりその3つめの現実相はプレゼンスpresence。これは漢字で表現すれば、「現前」とか「現前性」、ひらがなを含めて表現すれば「面前への立ち現れ」といったところになります。この現実のありようがまさに立ち現れてきました。いま話題にしているリストア車や古民家というそのオリジナルの立ち現れは、あきらかに観念上の原型のことではなく、あちこち修繕や磨きを重ねて、よくみるとその跡もわかる具合に時間経過や維持にかかった手間暇も感じられ、また経年劣化も含めて、いわばパティーナ(patina)あるいは和風には「渋み」「枯れ」「さび」といった風合いをも醸し出しながら、いまここに立ち現れている姿であり、その全体性のことです、ということではないかな。
しょうた: プレゼンスというと存在感ともいえると思いますが、ピカピカの電気自動車とリストアされた50年前のGT-Rを並べてみるようなことを思い描けば、GT-Rの存在感は圧倒的なはずです。それはあの名車が半世紀の時を経て目の前に姿を現したという歴史性や物語性を伴ったプレゼンスですね。オリジナル云々とはまた違ってオリジナルプラスのそのプラスの価値あっての存在感ですね。
そのか: 単に中古車と新車を比べるのとはちがうということね。わたしのいう古民家もただ築後百年経った廃屋というわけではもちろんなくて、経年劣化ではなく変化を得てまだ使えるすぐれた素材や構造は残し、あとは現代の技術で再生したという意味のそれだから、価値はオリジナルへのこだわりというよりもそのかたちや風合いを継承して使いつづけてきた歴史性を含んだ重厚感といった存在感なのだと思います。
プレゼンス、現前性の性格
N'da: そこでもとに戻ったところでオリジナルの問題はひとまずおいといて、プレゼンス、現前性という現実の性格について焦点をあわせてみたいのだけれど、わたしたちはリアルとかリアリティとかアクチュアルとかアクチュアリティといったいろいろなことばを使って現実という性質を語るけれど、このもうひとつの現実面であるプレゼンス、現前性。目の前の立ち現れという現実性にはどのような特徴が読み取れるだろう。
しょうた: 自分の目の前に立ち現れているということでいえば、はっきりとしたモノとしてそこにある現実感、手で触れられる存在感でしょうか。
そのか: いまふたりともクルマと家というモノを例にしたからだけど、物理的な対象でなくて幻でも、たとえば幽霊や幻のように本当は物理的にそこに存在していないものでも、自分の眼前に立ち現れるという仕方もあるでしょう、しかも凄く存在感があるかたちで。
しょうた: そうか、存在感ということでいえば、客観的には同じ人なのに、芸能人とか政治家といった人たちには実際にそばでみるとオーラというような何かが感じられて存在感の違いを感じてしまうけど、あのよくわからない雰囲気というものも現前性をつくりあげる性質でしょうかね。
N'da: そうですね、プレゼンス、現前性という現実のありようを考えるうえでだいじなポイントが掴めることになりました。まず、プレゼンスは存在感という五感以上のものも含めた諸感覚の総体、さらには自分の想像や情感なども含めて感じとられるような感じ方だということですね。ただ、ここでとくにだいじなのはこの感じるというのは生きているわたしたちが生きているその今のこととして感じられるということをいいあらわすことであって、それもとりわけ「今」に重きをおいた意味でのそれであるようです。これは現前という以上、当然のことではあるけれど、現に「今」が大前提となっている実感です。たとえば、どれだけの偉人といわれていようと、たぶんとんでもない存在感をもっていたであろうナポレオンだの織田信長といえども、今自分の目の前に登場しないかぎり、どんなに想像を逞しくしてもその現前性、存在感は希薄なままでしょう。逆にいつもは画面でみている芸能人や政治家にどこかで実際に出会ったときに感じる存在感というのは、どこか普通ではない衣装や挙動、そして周囲の常ならざる状況が総合的につくりあげることなのだろうけれど、それと今遭遇しているというその事実にも大きく左右されて感情ともども変性した意識状態で得る現実感なのでしょう。天皇陛下だって誰もが目の前で会うととんでもない存在感を感じてしまうものだというけれど、もしそれと知らずに銭湯の湯船で出会ったら、やっぱ陛下は違うわ、なんて感じないのじゃないかな。
しょうた: そんなことがあったら別の意味でとんでもないプレゼンスを感じちゃうのではないですか。
N'da: あっ、どうもどうも。で、きょうは? というわけにはいかないか。ま、それはともかく、三相の現実をあらためて定位すると、リアリティは認識論として現実性、アクチュアリティは行為論としての現実性、それに対してプレゼンスは存在論としての現実性と類別して考えてみることができそうです。するともし、わたしという主体を基点にして考えたとき、一般的にはリアリティはわたしが認識する現実感のこと、アクチュアリティはわたしがおこなう、あるいはおこないうる現実感のこと、それらに対してプレゼンスはふつうはわたしの側を離れ、わたしに対峙する対象の存在に関する現実感という見取り図ができます。
認識におけるリアリティ・行為におけるアクチュアリティ・存在におけるプレゼンス
するとこの基本図式は、リアリティとアクチュアリティはあくまでこっち側の感じ方や動き方だけれども、プレゼンスはあっち側のありようということになる。この関係性においてはこっちのことはこっち次第、でもあっち側はこっちではどうにもならない状況のなかでの現実性ととらえることができる。だから、「この今」というまさにわたしたちの現実ととらえるその瞬間においてその現実を語る主体にとって現前するものごとは大袈裟にいえば、完全な他者性とそれゆえの、つまり当方ではどうにもならないという特権性を帯びて立ち現れるということです。この大なり小なりの特権をもった立ち現れに対峙するとき、それをどのように現実化するかというところに自分の側の認識の仕方がかかわってくる。そのときの現実面での状況にも依存しながら、その認識の仕方は一方の極に無視、他方の極になすすべなく取り込まれるという幅のなかでのグラディエーションにおいて動き、その動きの程度に応じて現前しているものの、つまり存在の特権性も決まってくる。
そのか: 普段、なんとなく当たり前の日常の現実を生きているから、とてもそんな具合には考えませんが、そのように分析的に考えてみるなら、わたしとわたしの周囲とのあいだの現実の関係性には、そういう力関係のやりとりのようなものが働いているのですね。そこにふつうは特権といったことは気に留めませんが、一番ベーシックなところでいえば、そこにあるイスとか石ころにもそこに存在しているということで特別な権利をもっているとみるわけですね。
N'da: 権利ということばにはそれをするだけの利得があり、それをしないと損といった損得感が先導してしまう感触があるため、できるだけ避けたいと思うところがあります。で、これは英語ではふつうrightですから、正当性ということばを当てて考えてみるのもよいと思います。ともあれ、特別な権利でも特別な正当性にしても、その特別なそれとは、どんな?
そのか: たとえば、イスでも石ころでもそこにある、すでに存在していることの正当性、つまり後からきた者に対して前からそこにあることの優先性でしょうか。
しょうた: 列に並ぶということがあるけど、先に並んでいる人は後から来た者に対して優先性が認められている。それはその人がすでにそこにいたことの正当性だしそれゆえの特権。
N'da: そういうことだね。先住権なんていうことがとくに植民地開拓の時代を経て以降、いわれるようになったけれど、それは先にそこに暮らし、存在していたものの既得権の別称で、まったく正当な特権性だといえる。むろんそれは人対人の関係についてのことでそれゆえの権利関係のことですがね、つまり、先住者にしてもすでにそこにあった石や木を取り除いて住みついたのだろうけど、石はともかく木も生物だから、その先住性はどうなるのかといったことにはならない。つまり、生物の先棲息性は勘定に入れない。
そのか: でも、再開発で騒がれている神宮の森の伐採の話などはその先に棲息していたことのプレゼンスの問題なのかもしれませんね。
種に特有な環界と存在
N'da: 立木の問題が裁判沙汰になるのは所有権をめぐっての人対人の話だから、ここの話とは違ってくるけれども、樹木であっても所有の話ではなく、純粋にその存在、プレゼンスを問題にして論じるようなことはおもしろいところかもしれません。ただ、先住にしても所有にしても、またその正当性についてもいずれも人間の観念のことであり、その観念での了解のもとにあることだから、基本的に人間の中での勝手な世界内で通用することだと認識する必要があるはずです。これはユクスキュルの語ったそれぞれの種に特有の環界(ウンベルト
)の拡張として考えることができます。この地球に住む数多くの生物種はそれぞれに特有の環界のなかで棲息し、物理的にはその環界の多くのところを重ねあわせながら生きているわけだけれども、それぞれに特有な部分は当然、他の種にはわかりえないところとしてある。だから、時空を同じくして共存しあっているようにはみえるけれど、それぞれの種にとっての日常の世界のありようはそれぞれにかなり異なっていて別個のものになっている。異なっているからこそそこには踏み込めないし、こちらの常をあちらにもっていくこともできないというわけです。これは種のあいだで別にそういう取り決めをしてそうなっているということではないだけに、そのノンフィクショナル性に凄みがあります。だから、人間社会のなかで認め合っている正当性、権利を樹木やハトやクマの環界にも適用しようというような計らいはそれこそまったく一方的な越権行為であり、第一、通用しないでしょう。
そのか: 神宮の森自体、もともと人間が造成した樹木群ですから、樹木の棲息とか生存を持ちだす話ではなく、あくまで街におけるわたしたちにとってのその存在の意義や所有関係などでの正当性に関する話だということですね。そうしたときにやはり実際にあの場所にいったときにあの樹木群のわたしたちにとっての現前性というのは、どこにでもある街路樹や公園の樹木とはちがった特有の存在感を感じるということはあると思えます。
しょうた: 先日、90歳を過ぎてもニューヨークを拠点に活躍されているジャズミュージシャンのレジェンド穐吉敏子さんのドキュメントをみていて、とくに印象に残ったことばがありました。穐吉さんは20代、つまり1950年代のアメリカに渡ってジャズの世界に入ったということですから、背丈も小さく、東洋人でしかも女性という立場であの世界で生きていくことがどれほど過酷なことだったか、それは想像を超えるものがあったと思うのですが、そうしたなかで彼女が生き貫いていくためのひとつの法則をみつけたといっていたんです。それは自分がコントロールできないことには耳を貸さない、自分がコントロールできることだけに集中するということでした。これって現実を生きるなかで自分のまわりに立ち現れるもの、それは評判はもちろん、そのなかには悪口や噂、偏見など自分を萎えさせるたくさんの面倒なものがあるわけだけど、それらはすべて自分に関することとはいえ自分ではコントロールできない他者のすることだから、そうしたプレゼンスの現実性は無視する。自分にとっての現実を、自分の認識としてのリアリティと行動としてのアクチュアリティに集中するといっていたのだと今日あらためて思いました。とくに90歳の過ぎた今でも「前に進むことしかない」と何度もいっていたのはまさにアクチュアリティとしての現実面に集中して生きている姿だなと。それは表現者、クリエーターとしてのミュージシャンの必然なのかもしれないけど、ふつうは自分のプレゼンスのことが第一にくるのかと思いきや、そうではなかった点に感心しました。
N'da: なるほどね。それで思い出しましたが、デカルトも『方法序説』のなかで、あの有名な自分一人で哲学していくための方法論とは別に、日常を幸せに生きていくための方法というのも併せて書いていましたが、そこには、人がよくすることだが、自分に与えられていないものについてあれこれ残念がっていてもどうにもならない。それは自分ではどうしようもないのだから、そのことはきっぱり忘れて、ともかく自分にできることをなせ、といったものでしたが、とかく目の前の現実のありようには不足感や嘆きを引き起こすことも多いわけだけど、その現実にあらわれる他者性よりはむしろここは自己中心の現実性と向き合うべきというところかもしれないですね。
実存という現実的存在のありよう
そのか: 関連するのではないかと思うので、ひとつ確かめておきたいのですが、この三相の現実ということと「実存」、実存的なありかたとの関係はどうみることができますか。
N'da: よいところを指摘してくれました。いま中心的にみてきた現前、立ち現れる存在が主客という観点でみれば、客体としての存在を強調していたわけだけど、併せてここに実存というありかたがどのように定位できるか、しょうた君はいま穐吉さんの生き方の法則を語りながら、それを言い表していたように思うけれど、どうですか。
しょうた: 表現者が現実に生きていくうえでは表現しっぱなしでは生きていけないから、その表現を観賞あるいは楽しんでもらってお代をいただくという職業としての表現をすることになる。そうなると表現に対する評価、評判から無縁であることはできないし、むしろそこが暮らしていくことに、あるいは表現をつづけることに直結してくる。すると観客、あるいはファンにとっての現前性、存在感が表現においてだいじになってくる。
N'da: 人前で発表したり報告したりするのをプレゼンテーションというけれど、あれはまさに単なる報告、レポートではなくて、いってみれば相手にとっての報告の存在感をアピールする営みのことをあらわしていますね。
しょうた: その存在感、存在性が観客からの評判や評価になると思うのですけれど、それは表現者にとって必ずしも自分の表現しようとしたこと、あるいはしたかったことと合致するとはかぎらないこともあるでしょう。
そのか: それはプレゼンスというものが常に他者性を帯びた客体としてあるということにも関係しているかしら。つまり、表現者が観客からみた現前性、存在感にこだわっていくとそれが次第に自分から離れていって別の誰かを演じているようになる。
N'da: 偶像ですね。役者やミュージシャンなどスターと呼ばれるような職業は、はじめの動機はともかくとして、自分自身の表現したいことを表現するわけではなく、役回りをそれとして表現するわけだから、スター当人というのは、自分にとっても現前する対象なのであって他者ですね。この切り分けの工夫としてほとんどの役者は芸名を使うことで表現者としての自分にも他者性をもたせてプレゼンテーションしやすくする。だから、スターの素顔という表現があるけれど、その素顔とはスターを演じているもとの人のことではなくて、あくまでもスターとして演じている役者としての顔、偶像の顔ですね。だから、それは当人にとっては他者の素顔ということになる。
しょうた: 穐吉さんの場合はそのスターへの歩みのなかで批評や評判が不可欠でありながら、そのスター性との付き合い方、距離の置き方を次第に学んで、その客体的な偶像を自分として引き受けるようなことはあえて避けるようにし、自分としての現実の存在感を主体的に表現するところにおくようにしてきた。つまり現実をアクチュアルに生きるようにしてきた。それが実存というありかたですかね。
そのか: わたしも話を聞いていてそうかな、と思いましたが。
N'da: そうですね。もともと今話していることは観念の問題だから、どれをとっても考え方をひとつに定位することはむずかしいし、どれがより適切かといったことも戯れごとだという了解のもとでのことになるけれど、「実存」ということばを使ってその「実」に込める意味あいは、やはり考える側からの存在ということにつきまとう他者性、それも自分以外の圧倒的多数に広がる客体のことを考えようとするとき、それを考える自分は一対多の孤独感、ひいては虚無感、無力感を感じざるを得なくなります。わたしを意識するとき、この意識があればこそのわたしだし、世界だとは思うものの、そこのイスも木も世界もわたしが今突然消えてもいままでどおり世界は存在しつづけるだろうと思うと、わたしはこの世界からまったく疎外されているとも思えてくる。でもそれは存在、ただいるだけ、ただあるだけで成り立っているところまで押し広げてみればそうなることであって、そんな具合に考えている実際の存在のことはどうなんだと思うとき、ふたたびこの生きて考えている動きのなかでの自分のありようが浮上してきます。するとこの今を生きているただひとつの主体としての自分の存在は他の存在一般とは異なる特異性をもっていることがありありと感じられくる。その特異な存在性を「実」の字をとって実存と呼ぼうとした考え方があります。とくにサルトルの語った実存主義がこうした立場だったと思います。存在一般があちら側であるのに対して、こちら側が唯一無二のリアルにしてアクチュアルなエクジスタンス、実存ということになります。いわば存在一般の大海のなかではほとんど無に等しくなってしまう自分の存在のレゾンデートル、つまり存在理由を問うとき、その客観性を誇張したかの静態的視座を突き破るものとして、こんな具合に疎外感に危機を感じて悩んだり、自分とはなにかを、現に今、問うたりしている生のリアルを認識し、さらに動きだすことで生じる変化、それは可能性とも言い換えられるけれどもそこにわが現前性を感じ確かめることができる特別な存在のありようを実存として浮き立たせたのですね。
そのか: すると実存というのは存在のプレゼンスが多くの場合、客体としてのそれであるのに対して、主体的な存在、わたしの存在のありかたをあらわすといえるわけですね。
N'da: はい、よってその実存の現実性ではなにが問われるかというと、
そのか: わたしの認識としてのリアリティと行為としてのアクチュアリティが問われる。実存的なリアリティはアクチュアリティにあらわれる。だから、わたしは今何をしているのか、に現実感を覚えるということですね。
しょうた: サルトルの語ったアンガージュマンは主体的な政治的・社会的政治参加のこと、と受験のときの倫理で覚えましたが、そのわたしは何をしているのか、の典型のひとつということで考えればよく理解できます。穐吉さんの「とにかく前に進む」ということもそれだと納得しました。
脱構築 現前の形而上学ふたたび
そのか: わたしも三相の現実性のなかで現前性がもつ存在の他者性をリアリティやアクチュアリティに引き戻すものとして実存というあり方を考えることができるという整理ができました。きょうもあっという間に時間が残り少なくなってしまいましたが、おしまいによいですか、わたしから、まだもやもや感があってはっきりしないので確認したいことがあります。前回のおしまいのほうでジャック・デリダの話に触れられました。そのデリダといえば、現前の形而上学を脱構築したということが代名詞のように語られますが、このデコンストラクションの標的となった現前の形而上学というのが、わたしのなかで今ひとつ明確にならないのです。形而上のことだからかたちのないことがらということですが、今日の現前性という現実相では主として客体としてあらわで、しかもそれがおのずと他者性を帯びているという特徴をもつことがわかりました。むろんそれが必ずしも物理的対象ではなくて、幽霊という場合もあるということはわかりましたが、このあたりの結びつきがもう少しはっきりできるとうれしいのですが。
N'da: はい、デリダは語られることばと書かれたことばについての主従関係的な図式、その構築されたフィクションに焦点を合わせ、その脱構築を語るところから始めたわけだけれども、ここはデリダ読解をしているわけではないので、そこからあえて離れて今日の話題に照らしてディコンストラクションを整理しましょう。そのために、まさにそのいわれた幽霊ですね。ゴースト、幻、しかも巨魁で執念深い存在として人間に取り憑いているゴースト。だからこれが常々わたしたちの前に立ち現れる。見えないのに、しつこくつきまとう。実に厄介なストーカーですが、ふつうはそれほど気にならない。ふたりもそんなゴーストにひどく困っているといったことはないでしょう。
そのか: はい、ピンときませんが、、
しょうた: ですね。
N'da: ま、それくらい極端に密着して取り憑いているので、すでに空気のようになっていてその現前に気づきようがなくなっている。でもふたりとも毎日、あるいはそのかさんなんかは、たぶん毎時間といってよいくらい、鏡で自分を見ているかもしれないけれど、それはなぜ?
そのか: お化粧がくずれたりしていないか、ちゃんといい表情できているかの確認でしょうか。
N'da: ちゃんと、って?
そのか: 一応自分的に、せめて見られたいようにしているかぎりでの基準を保てているかのチェックですかね。
N'da: なるほど、だいぶむずかしい表現を求めてしまった感があるけれど、しょうた君の場合も含めて、鏡に映る自分をみて化粧をしたり、あれこれ手をつける根底には化粧品会社のおよそすべてが共通して掲げているはずの「美しさ」を求めて、という動因があるでしょう。この美はむろん化粧だけでなく、所作にも生き方にも徳にも、手に入れたいものにも、食べ物にも、乗り物にも、人が関わるすべてのものごとについてまわっている。だから、といういい方もできるだろうけど「俺は美しさなんかには囚われない。むしろみんなが醜いとするものに好意をもつね」なんていうこともでてくるけれど、これもまたひとつの美学として感じとれてしまう。美は人に実にしつこくつきまとう。それほど親密な美であるからには、美とはなにか、はもちろんよく承知のことだろう、といえば、これがまた今いったばかりの美学というそれを問い続けている学問があるほどに、おそらく人類の誕生以来問われ続け、いまだ尽きていない状態のままにある。つまりは正体不明のゴーストという身分のままでわたしたちに取り憑いているわけです。その執着性の強さにあらわれているようにこれは絶対的存在感を呈して現前するわけですが、実は文字どおりのゴースト、いいかえれば美とは人類のたとえば脳が抱える機構上のバグによる幻で、生得的な大いなる錯覚である可能性がある。カントの好きなことばを借用すればアプリオリな錯覚ということになりそうです。で、いまは例として美をとりあげたけれども、これは真・善・美に代表される形而上の観念のおよそすべて、つまりソクラテス・プラトンがいうところのイデアについていえることです。なにがいえるのかを繰り返せば「それはいったい何なのか」というまさにソクラテスの基本的な問い、それはものごとの本質を問いただすことですが、その答えを求めて数千年、はっきりとした解が求められない全イデアの正体不明性、そのゴーストとしての現前性は、だから驚異でも脅威の存在でもなくて、大いなる錯覚にすぎない可能性があるということです。プラトン自身のことばを借りれば、彼はイデアについてそう語ったわけではもちろんないけれど、これこそが「思いなし」だということです。だとすれば、プラトンが『ポリテイア(国家)』で「善」という究極のイデアとして掲げたものを知るうえで登場させた「線分の比喩」では一方の端点にイデアに接し真正な理知の思惟によって識れる可知界、それに対する他方の端点に思いなしによって見える幻影を含む可視界という一次元の図式を描いてみせたのだけれども、実はこの線分の
(以下の線分の引用は藤澤令夫訳『国家』岩波書店から引用がわかるようその本文の一部を含めた。
線分には補足の文字や矢印を加えている。)

てついでに別のイデアである真偽も表現して、表が真、裏が偽をあらわす帯としてみたうえで、ここに三次元CGで示したように両端がメビウスの帯のようにつながっているとみれば、イデアの現前は大いなる思いなしがなす幻だという比喩がその続編として描けるというおもしろいフィクションもできるわけです。
しょうた: もの凄くおもしろい図ですし、とても考えさせられます。でも同時に気になるのは、これこそ新たな構築作業ではないか? どうして脱構築になるの? という単純な疑問が浮かびます。
N'da: 実によい疑問です。その疑問が生じるかどうかということも知りたくてこのメビウスの帯をあえてディコンストラクションと名づけたともいえます。つまり、脱構築というのはなにもかも構築することをやめよう、という話では全然ないということです。そもそも構想も含めて構築せずにいられない人間にとって構築から脱せ、というのは端から無理な注文だ。ただ、大好きでついしがちになるフィクショナルな次元での構築で、とりわけ上下関係、位階構造、対立関係、主従関係、正副関係といった今日ずっとみてきた特権設定が絡む構築の仕方が焦点なのであって、そのつくりから脱しようよ、ということです。プラトン『ポリテイア』の線分の比喩にしてもABはそれ自体もともと隣り合う関係だけれどもそこにCを入れ、Dを入れ、Eを入れることでABはどんどん離され、無縁関係になるくらいに両端化される。そして一方は人間がその頭のなかだけでぎりぎりまで迫りうる天上界につうじうるイデア思惟の世界、他方はあるかないかもわからないあやふやな幻視という具合に切り離した構築がなされ、この構造は社会に構築される身分制度や職能位階といったこととの相同性を背景に納得されていく。でも、その天上界イデアこそ大いなる幻ではないですか。とABの端をくるっと丸め、ついでに一方を裏返してABをつなげれば、実は真偽も可視界も可知界も境なくつながってしまう。こうしてディコンストラクションされることはなんなのか、がわかることになります。わたしたちにはっきりと見えた大きな虹が希望につながる幻であるように、イデアにはわたしたちが追い求めるイデアル、つまり理想としての働きがあり、それが実際に日々の営みにおいて大いに機能している。現前する形而上の観念はまさにそのような日常づかいのコモディティ、身近なものごととして十分に働いているというリアリティがあります。そうであるならば現前の形而上学は哲学の究極の問いとして、しかめ面した人たちだけに迫りうる位置づけに鎮座しているようなものではなく、むろんかといって、もとより正体なきものだったと捨て去るようなものでもなく、少なくとも形而上・形而下ということばがもつような上下関係を描き、たてまつってしまうような了解の仕方をせずに普段の場に降ろして考え、使うものとしてある。つまりそのように実際、立ち現れているものだ。これが現前の形而上学に対する脱構築が意図するところといえるかと思います。デコンストラクションのだいじなポイントのひとつはこれがデストラクション、破壊を意味するわけではないという点です。たとえば、形而上のことを幻だとして無化するということではない。それとこれもかつて多々誤解されたことだけれどもリストラクチャリング、再構築を語るものでもない。リストラはそれをやめて別のあらたなこれをつくるということだけど、脱構築はその構築を繰り返すことをしない、できてもせずにいるということです。ここで例にした線分の比喩をメビウスの帯の比喩にしたのは再構築をしたのとはわけがちがう。左右を反転させて価値転換をしたとか、横のものを縦にしてみたというのとは、質的にちがっているのです。
しょうた: なるほど、メビウスの帯の脱構築にはプーチンとゼレンスキーが最前線に現れて一騎打ちすることで国境を決するような意味あいがあるという受け止め方をしました。
N'da: それは馬鹿げた戦争と誰もがいうその馬鹿げた大きな構築ごとから脱する策の構築ですね。
そのか: 今日の対話から、真善美という抽象的な観念にむずかしさを感じるのは、それが幽霊としてあらわれるから、透明で正体不明であるから当然のことなのだとあらためて思えました。また、それでいて何かものごとを考えたり、判断するときに、この得体の知れないものがいつもわたしたちの眼前に立ち現れるということも、そういえばそうだな、とあらためて思い直せました。つまりそれほど身近なゴーストなのだからもっと親近感をもってあらためてつきあっていきたいという好奇心も抱けました。ありがとうございました。
しょうた: ただ、ぼくは苦し紛れに戦争の終結像を描いて脱構築を了解したところもあります。いつもメビウスの帯のような具合にスマートな解が描けないだろうと思うと、壊したあとにもとの再構築にならないようにするための条件といったことを整理してみたく思います。次回はそのことのヒントもうかがえることを期待しています。きょうはありがとうございました。
N'da: それはだいじなところですね。次の時間でその整理ができるかどうかは不確かですが、その助けとなるようなことも含めて進んでいきたいと思います。おかげで今日もいろいろ楽しく考えることができました。ありがとうございました。
---次回(4)につづく---
プロフィール
N'da Ha Satomohi(ンダ・ハ・サトモヒ)
太平洋戦争敗戦から十数年が経ったころ、この世に生を享けた。その経緯から、どうも南方戦線あたりで死にきれずに彷徨った学徒の英霊がやっと故国にたどり着き転生したのではないかという思いを胸の内のどこかに潜ませてきた。それなのに高度経済成長の時代に少年期を過ごしバブルに興じて甘すぎる人生を歩んできてしまったことへの自戒がある。人生晩期に至り、いったい自分はなにを学びえたのか、同時にその黒板を背にしてなにを伝えられえたのか、と、より深い自省の念にかられ、これからの人たちのためのこの国について、人類としてもつあの原アフリカへの憧憬とそこからのパワーを借りた化身となって、ここにその構想を語り始めているものなり。
なお、ここでいう原アフリカとは、人類の起源はアフリカにあり、そこから20萬年にわたる遺伝変異と移動のグレートジャーニーを経て、いまの肌色をあたまに多種多様になったわたしたちがいるという定説を一応踏まえて、その多種多様さの必然的交錯としての偏見といさかいに呆れつつ、おい、もういい加減にせい、と叱る大本祖先ンダムとンヴのふたりが立った大地のことを指している。