満を持してベルリン在住の友人、日比野紗希ちゃんにご登場いただきました!最近どうよ?というノリで雑談をスタートしたのですが、社会変容に関する機微や変容してゆく社会の中で大事になるケアの視点についてなど、いろんな話ができました!知らない人もいると思うので、さきちゃんのプロフィールを下段に貼っておきます。
それでは、さきちゃんとのセッションを以下よりご覧ください!
社会変容の萌芽?
佐伯: さきちゃんもベルリンでの生活が長くなったよね。
日比野: 短いとはいえなくなりましたね(笑)。
佐伯: もう10年経ちました?
日比野: まだ10年も経っていないんですよ。2017年に日本を出ているので7年かな?
佐伯: 7年かぁ。すごいよ。
日比野: 時の流れは早い(笑)。
佐伯: 早いよねぇ(笑)。
佐伯: 一時間ぐらい雑談するって感じでいきましょうか。最近思ってること、考えてることをお互いに素直に話せればそれが面白いかなって思ってます。
日比野:了解です。最近行ったリサーチプロジェクトの中で取り上げていたもので気になったのが、"ゆるさ"や"グレーゾーン"といった曖昧さを、曖昧なまま定義するといったテーマですね。今の若い世代を中心に、ここ数年、"流動的であること"を表明する風潮がいろんなカテゴリーで出てきているなと思っています。
佐伯: うんうん。
日比野: 例えば、食だったら、数年前から出てますけど「フレキシタリアン」とか。
佐伯: ごめん、フレキシ??
日比野: 「フレキシタリアン」って聞いたことありますか?
佐伯: わかんない、、、!
日比野: フレキシブル(柔軟性)とベジタリアンをかけて「フレキシタリアン」というのががあるんです。
佐伯: えー!
日比野: 直訳すると柔軟な菜食主義者なんですけど(笑)。
佐伯: 知らなかった(笑)。
日比野: どういうことかというと、基本はベジタリアンだけど、状況によって動物性のもの、肉や魚、バター、チーズなども食べますといった人たちを指します。
佐伯: へえー。
日比野: あと、「シチュエーションシップ」という言葉は聞いたことありますか?
佐伯: なんとなく想像はできるけど聞いたことないっす。
日比野: いわゆる友達以上恋人未満みたいな超グレーゾーンで、別にカップルなどといった関係を定義や公言せず、シチュエーションによって、親密な関係を築いてるみたいな...。他にも「ジェンダーフルイディティ」など。ジェンダーに対して流動性を持つ、どのジェンダーかはその時々のムードやシチュエーションによって、自分の中で表現していくような流れがあります。最近こういった風潮のことを考えていたんですよね。
佐伯: うんうん。
日比野: 「フレキシタリアン」や「シチュエーションシップ」、「ジェンダーフルイディティ」も、別に昔からあってもおかしくない。定義していなかっただけで、「野菜多めの生活です」「肉や魚はそんなに食べません」という状況はあったと思います。「たまにメンズっぽいルックス、メイクアップ、着こなしをしてます」「今日はクィアな感じでいく」などもありえると思います。だけど、最近は、そういった状態を定義して、公言をしないといけなくなってるんだなと。なぜ定義する必要があるのだろう?って考えていました。言わなくてもいいことでもあるけど、名前を付けて表明しないといけない。
佐伯: それってすごく面白いっすね。東洋には諸行無常という考え方があって、次の瞬間に変わっててもいいっていう見方があると思うんだけど、西洋はアイデンティティを大事にするというか、自分はこうだっていうのをすごく大事にする人たちなのかなと思ってたから、フレキシブルに意見を変えるみたいな、平野啓一郎さんの分人主義みたいに、シチュエーションや付き合ってる人によって別々のパーソナリティ持っててもいいんだよみたいな考え方がヨーロッパの若い人たちの中で出てきてるっていうのはとても意外っす。
日比野: それが加速したひとつの要因として、パンデミックもあると思うんですよね。例えば、ベジタリアンの場合、家でご飯を食べることが増えて、ベジタリアンだった人もベジタリアンじゃなかった人も食生活から健康のこと考えるようになりました。あと、私達よりも若い世代の人たちは、生まれたときから環境破壊、戦争、移民問題、経済危機など、暗雲が漂って先行きがわからない状況に置かれている。かつ、それらの情報は、膨大にインターネット上に溢れていて、常にそういった情報の中で暮らしている。
佐伯: うん。
日比野: 若い子と話をしていると、先のことよりも「今」にフォーカスをしている風潮があると感じています。今の自分が幸せである、自分の精神が安定して健康であるという「セルフラブ」「セルフケア」カルチャーが浸透し、「今」の自分に矛先が向くようになりました。時間軸においても、よくわからない未来の話より、「今」にフォーカスして、今この瞬間に対する価値を大事にしようといった流れになってきている気がします。
佐伯: おおー。ノーフューチャー。
日比野: 「今」ここでの関係性とか、「今」私が食べたいものとか、「今」の私のアイデンティティが重要。でも、数分後にはわからないといったような。
佐伯: すごい。諸行無常じゃないすか。
日比野: そうですね(笑)。ただ、フレキシタリアン以外の二つ(シチュエーションシップ、ジェンダーフルイディティ)は、いわゆる従来の”スタンダード”とされていた社会規範とは異なる新しい概念であると捉えられることもあると思うので、アンチもあると思います。特に、関係性というのは他者を巻き込むから、グレーな関係であるってことによって、双方の間の方向性の相違などが生まれた状態の場合、「それって遊ばれているよ?」「あなたの幸せにならないよ」といった精神的にダメージを伴う状態も生まれやすいじゃないですか。
佐伯: 確かに。
日比野: これまでは、特定の1人に対して、責任を持って向き合い、関係を育むというのが一般的なスタイルだったと思いますが、SNSやマッチングアプリが流行るようになって、複数の選択肢が容易に手に入るようになったのと、先ほど話した「今」を大事にする背景もあり、ノン・モノガミーといったモノガミー以外の付き合い方、ジェンダーの定義に幅がでてくると、関係性のかたちも多様になってきます。そういった新たなかたちがどんどん定義され、ジェンダーフルイディティや、シチュエーションシップといったかたちもでてくる中で生まれるカオスな事態にどう対処していくかということも話をされていくといいなとも思います。定義づけられて、その名称を公言することで守られることもあれば、そういった新たなスタイルの中で、責任、ケア、リスペクトが軽視されたり、心が傷ついたときに、何らかのかたちで守られるスペースの必要性も感じています。
佐伯: なるほど、、、。
日比野: 変容性や流動性といった仏教的な考え方を彷彿とさせる部分もありつつ、それがみんなにとってヘルシーになるかというと必ずしもそうとは言えない状況も出てきているのかもしれません。
佐伯: うんうん。
日比野: フレキシタリアンのような概念は、どちらかというと自己の中で完結するあり方だから、誰かを傷つけるという事態はあまり起こらないと思うのですが、他者が絡むと、さまざまな状況の中、双方の間で摩擦が生まれることもあると思うので、変容性がどのように作用していくかは、その状況にあわせて柔軟に対応できる能力が必要になってくると思います。フレキシブルや曖昧であることを定義して、公言するような流れをみていると、その文脈は何だろうと気になりますね。
佐伯: 繰り返しになっちゃうんだけど、一部のとがった人っていうよりかは、全体的にそういう考え方が芽生えつつあるということだよね?
日比野: あると思います。
佐伯: すげえな、、、。従来の保守的な社会規範って、ヨーロッパだからキリスト教がベースだよね?
日比野: そうですね。物事を定義するという風潮は、西洋の考え方でもあるとは思います。
佐伯: うんうん。
日比野: 定義をしないと、認知がされない。認知がされないと守られない。といった構造があると思うので、公言することは大切になってきているのかもしれません。例えば、私は、フレキシタリアンという言葉に対して、周囲の言動をみていると、「普段はベジタリアン寄りだけど、たまにお肉や魚も食べます。」といった印象を受けることがあります。お肉を食べる人が、どちらかというと野菜を多く食べますという印象ではなく、ベジタリアンをちょっとゆるくしているといった感じに近いかなと。
佐伯: ふんふん。
日比野: ベジタリアンであることが良いという風潮が高まってきている中、基本はベジタリアンだけど、「たまには、肉や魚も食べます」といった態度をフレキシタリアンと名づけることで、そのスタイルが守られるところもあるかもしれません(笑)。
佐伯: うんうん(笑)。
日比野: 定義したり、概念化する風潮の背景には、「これが良い」「これが悪い」といった二元論的な見方に偏ったり、カウンターとして批判されやすくなるといったある種の対立構造が生まれやすいという面もあると思います。アイデンティティやセクシャリティーをみても、細分化されてきていますよね。何らかの定義づけをして、名称をつけてあげないと成立しなかったり、自分というものを守ることができない風潮があるからかもしれません。
佐伯: うん。
日比野: 曖昧な状態を定義したり、公言することもどこか型にはめているような気もするので、矛盾があるようにも感じます。根本的なことかもしれませんが、何かを公言したとしても、それが変わることもあるかもしれない。でも、それを言わざるを得ない風潮はあるのかなと。
佐伯: ふうん。
日比野: 定義やイデオロギー化していくのは、ある意味西洋的なのかもしれないですね。
佐伯: そっか。定義したりイデオロギー化したりといったところは相変わらずの側面がありつつ、曖昧なままに曖昧を作ろうみたいなムーブメントが起きてるっていうのは、問題点もあるけどめちゃくちゃ面白いっすね。話をすごく飛躍させると、自分はこの先、国民国家っていうものが自然となくなっていくんじゃないかって思ってるんですよね(笑)。
日比野: うん(笑)。
分断の先へ
佐伯: だいぶ先の話だけど、人がさらに流動的に動き出すと混血が進んで人種の区別っていうのがつきづらくなってくると思うんですよね。そうなるとどっからどこまでが純粋な日本人だっけ?という曖昧さがでてくる。あとは、いわゆる「家」、自分でいうと佐伯家みたいな枠組みもこの先、2世代ぐらい経つともっと崩れていくんじゃないかと思ってて、下手したらあと100年ぐらい経ったら国民国家っていう、20世紀を代表した形式も別なかたちに変化していくんじゃないかな?って何となくそういうこと考えてました。なので、そういう気配がヨーロッパの若者の中にも見え始めてるっていうのは、シンクロニシティを感じております(笑)。
日比野: その話で言うと、私は、どこの国家に属しているかやどのアイデンティティにあたるのかを説明するのが、どんどん難しくなってきているなと思ってます(笑)。
佐伯: うんうん。
日比野: ここ数年、ベルリンに拠点を置いていますが、パリで過ごす時間が増え、拠点が複数になりました。さらに、ナショナリティやマインドセットのバックグラウンドは日本ですが、海外生活が長くなってくると、考え方やコミュニケーションの仕方がだんだんミックスされている感じがあり、今の自分のアイデンテティをはっきり表現できないことがあります(笑)。この先、自分がどうなっていくのかもわからないところがありますね(笑)。
佐伯: 自分も仙台から東京にきてだいぶ時間が経っちゃったので、秋に芋煮会をやりたくなる気持ちが薄れてきてる(笑)。
日比野: 芋煮会(笑)。
佐伯: やっぱり、住んでいる場所に影響されて、感覚が変化しちゃうみたいなことはあるんだなと思ってました(笑)。
日比野: そうですね。自分が置かれている環境、どういう人たちやコミュニティと過ごすかによって、色々な影響を受け、考え方や価値観などは、だんだん変わってきますよね。異なるナショナリティやアイデンティティ、バックグラウンドの人と話すときに、「日本人は〜」、「日本だから〜」って言うこと自体に抵抗や疑問がでる時が増えてきました。私自身も色んな考え方や文化に影響を受けているから定義しづらいですし、ひとまとめにして括れないことが多すぎるなと思いますね。改めて、外から日本を見ると、欧米と日本は価値観や考え方が違うと言いつつも、現在に至るまで、欧米の影響をすごい受けてきた側面もあるし、アニミズムや仏教的な思想といった独特な文化もありつつ、実際の生活の中でそれが現れている部分と、実はあまり現れていなくて、どちらかというと欧米と似たような行為や考え方に捉えらるような部分もあり、矛盾も多かったりするので、自分がそういった日本人や日本と括って何かを説明するときに、疑問を抱きますね(笑)。
佐伯: (笑)。
日比野: 「それ矛盾してない?」と他者から指摘されることもあります。「そういう考え方があることはわかるけど、実際、私がやってることや言ってること、日本がやってることと言ってることはその考え方とは違うことない?」と言われると、確かにと気付かされます。
佐伯: 論理的な矛盾だったらあれだけど、現実的にどうすることもできない矛盾みたいなのはやっぱりあるし、そこを曖昧にしておくっていうのは東洋的だよね。
日比野: あと、逆もあるじゃないですか。私たちは欧米の人たちを西洋的、キリスト教的だと言い続けてるけど、そうじゃない瞬間もある。
佐伯: 確かに、固定観念の箱に西洋人全部を入れて語っちゃうみたいなね。
日比野: そうですね。お互いが自分の土台はこれだと信じて疑わないところがありますよね。難しいですね。実際そうとも言えないのに、根底はそうなのかなと固定観念で見てしまいがちなところもある。
佐伯: うーん。
日比野: 異なる文化や背景を持つ人たちも、私という違う文化や考え方の人と触れることによって、私と同じように変化してるのだろうと感じます。それこそ、私が住んでいるベルリンやパリは日本よりもさまざまな人種、移民や難民を受け入れてる都市なので、異なるものと生活することには慣れているはずだとも思います。
佐伯: うんうん。
日比野: そうした環境にいると、ミクロでもマクロでも少しずつ影響を受け合って変化していると感じます。従来の国家といった大きな枠組みでのシステムが、身近なところから崩れ始めているというか、変容していっている。日々、何かが変わっていっている感じはしますね。
佐伯: そうなんすねぇ。社会が小さいところから変容しつつある、それはヨーロッパでも日本でも起こってることなんだと思いました。日本で保守界隈の人が「家」が大事、家をおろそかにすると国体つまり国家が崩壊すると言ってるじゃないすか?それはそうなる可能性が高い気がする。自分の家庭もそうなんだけど、核家族化が進行して、親兄弟それぞれ別々の土地で暮らしてる。両親仙台、妹はオーストラリア、弟は京都、自分は東京、、、。この流れがあと2世代も続いたらどうなっちゃうんだろうという、、、。社会の変容が嫌な人は元に戻したいって思うんだろうけど、この変化は止められないと思う。自分は新しい社会のあり方を考えるのが楽しいと思ってる派です(笑)。
日比野: そうですね(笑)。元のかたちに戻すことよりも、家というものをもう1回考えるべきなのかなと思います。血筋を残す家というかたちや繋がりが破綻するとなった場合、どんなかたちがあり得るのか。人間って、やっぱり1人じゃ生きられないじゃないですか。
佐伯: うんうん。
日比野: 誰かと一緒に暮らしたり、支え合ったりする願望や必要性はナチュラルにあると思います。
佐伯: うん。
日比野: そう言う意味での家というのは必要だと思うんですよね。
佐伯: うんうん。
日比野: その家が、いわゆる血筋で繋がった家ではないあり方になったら、いろんな意味で不安を抱えてる人たちが救われる気もする。その家は、もう少しサスティナブルなかたちで続いていくかもしれない。
佐伯: 昔の教会とか寺みたいな感じかなぁ。教会って今でも機能してるのかな?
日比野: いやー、どうなんでしょう。昔ほど機能してないと思います。
佐伯: うん。
日比野: キリスト教を意識している人も減っているし、週末に教会に行って祈るというカルチャーも私の周りではあまりみない印象です。コミュニティ的な繋がりであったり、もっと親密な、家族みたいな繋がりみたいなものがあってもいいと思うんですよね。私も、老後一人になった時、誰かと支え合って、世話をし合いたいと思うし(笑)。あとは子供を育ててみたいと思うかもしれないですが、自分と血が繋がってたり、婚姻関係などで繋がっていなくてもいいのかもしれないとも思うこともあります。
佐伯: うんうん。
日比野: 社会にそういった状況をフォローする制度がない限り、なかなか認知されなかったり、福祉として還元されまなかったり、生活をしていく中での支障が出てくるとは思いますが、これだけいろんなものが流動化したり多様化してくると、社会がそうした状況を受け入れ、それらに合わせたかたちを考え、生み出していくのか、社会制度に関係なく、個々人が「それでもいい!」と考えて、自分たちで作り出していくのか、どちらが先になるんでしょうね。
佐伯: そうすねぇ、、、。きちんと民主主義が機能するのであれば、そうした少数派、もしくは先鋭的な人たちの意見も採用されるはずなんで、伝統的な価値観に基づいてコミュニティを形成したい人たちと、そうじゃない人たちっていうのが共存できるはずなんですよね。どっちかがどっちかを排除するんじゃなくて、、、。民主主義がこれからも機能し、充実していくという前提にたつとすれば、新しい価値観を持った人たちは、新しい自治体?を作り、そこに共感する人たちが集まってくる。そうなっていくと、世界は今までと違った枠組みに自動的に変化すると思うんだよね。
日比野: 数年前に、現代アーティストのヒト・シュタイエルの講演を聞きました。講演テーマは、テクノロジー、権利、国家権力などを掛け合わせたもので、そのときに来場者から「将来のアート業界はどうなっていくと思いますか?」という質問があったんです。その質問を受けたヒト・シュタイエルは、「協力し合おう」「一つになろう」「違いを超えてわかり合おう」といったように、歩み寄ってお互いをわかり合おうという風潮も大事としつつも、どちらかというと「これからはどんどんコミュニティなどさまざまなフォームで細分化され、分断されていくと思います」といったことを言っていて、すごい面白いな、そうだなって思いました。
佐伯: うんうん。
日比野: 分断と聞くと、角が立つような雰囲気があるのですが、ある意味すごい平和かもと思って(笑)。さっき、佐伯さんが言ったみたいに、互いに居るんだけど、排除したり、攻撃したり、カウンターで対立しあうのではなくて、「いるね」と確認し合う感じなのかな(笑)。でも、全体で共有したり、みんなで決めることがあった場合は、みんなに権利があるよという状態。
佐伯: そうっすね。水とか、空気とか公園とか、そういうみんなの場所は共有して使えばいいよね。電話とかインターネットとかのインフラもそうだけど。
日比野: 確かに、そうやって一緒の空間にいるけど、「そっとしておく」っていうことも平和に繋がりますよね。
佐伯: 民主主義が発達していくと自然と分断すると思うんですよね。例えば国民全員で一つの主義主張を持つとなると全体主義になっちゃうじゃないすか。今の時代に生きる人々のステージを前提に考えると、主義主張を1個にまとめようっていうのは必ずどっか破綻が起きちゃう。だからもう無理だと思うんすよね。
日比野: 自然の原理に置き換えて考えことがあるんですけど、カオスになったら、その先にも何かあるんだろうなって思います。自然の原理も一つにまとめようとしてない。自然という定義にすると語弊がある様にも思うので、さまざまな状態における流れの中で起こることに対して言えることかもしれません。今はそういうムードとして動いてるかもしれないけど、どこかのタイミングで、それがまた違う流れや状態になるかもしれない。突然爆発して一気に変わるかもしれないし(笑)。読めないですよね。
佐伯: 民主主義が良くなるであろうこの流れは今後くると思うんだよね。
日比野: 例えば、最初に挙げた例のシチュエーションシップなどをみても、付き合い方の種類はさらに細分化・定義されてオプションは増えていく流れもありつつ、1人ともう少し多くコミットして、精神的にも経済的にも一緒にサポートしあって、人生を共にしていきたいという流れも反動として増えてたりするかもしれない。
佐伯: ちょっと話題はそれるかもしんないすけど、KOHHがリリースしたTEAM TOMODACHIっていう曲が流行ってんの知ってます?
日比野: PVをTikTokかなにかで見たことあるかもしれない(笑)。
佐伯: 国内外のラッパーが、TEAM TOMODACHIをリミックスして友達と歌ってるところを撮影してPVを作って、どんどん公開してて、なんか面白いなーっていうのを感じてます。
日比野: 基本的には、自分と価値観があって、一緒にいて居心地がいい人たちとの深まりや繋がりについてですよね。話がまた戻るかもしれないですけど、自分の精神状況とか幸せを考えたときに、居心地がいいし、そこにいることが幸せなんだという気持ちを誰しも持っているということなのかなと。
佐伯: うん。
日比野: もしかしたら流動性のある中にも、変わらないものや、ずっと一緒にいられるものを求めているのかもしれないですね。友達もときには離れたり、連絡を取らなくなったりなどありますが、基本的には、変わらず側にいてくれる心のよりどころでもある。
佐伯: そうなんだよね。去年コロナがあけてから直接会う友達や、10年ぶりぐらいに連絡をくれた友人も結構いたのよ。
日比野: 1人、2人じゃなくて、たくさんいたんですか?
佐伯: 偶然にも5人以上は会った気がする。偶然じゃないのかな(笑)。
日比野: そういった偶然が持つ強みもいいですよね。
佐伯: だよねぇ。さきちゃんともこうやってインターネットのおかげで話せるのもめちゃめちゃありがたいっす。
日比野: そう考えると時は経ちましたね。佐伯さんと最初に出会ったの時は、私がまだ20代前半だったので、10年以上前ですね。
佐伯: あっという間だね。
日比野: そうですね。私も、その時は、今の自分がいる状況を想像していなかったです。
佐伯: 今回話した、さきちゃんが捉えてる変化の兆しを感じている人って少なからずいるから、すごい面白いことを聞けたなって思ってます。
社会変容とケア
日比野: リアルな感覚として、そういう風潮が出てきたときの怖さみたいなのもあるんですよね。社会の怖さっていうより、自分の中の怖さ。不安定になったとき、将来がどうなるかわからないってことは前提としてあるんですけど、例えば「私とこの人との関係性はこうです」と表明できたものが、わからないものとして認識されたり、保証されない状態に対しての不安もきっとでてくる気がする。それは、根底に、自分の中でのスタンダードが、いわゆる社会で認知されている、ある意味で守られたパートナーや〇〇といったかたちをとっているから、安心感に繋がっているのかもしれない。それらの概念が揺らいで、わからなくなった瞬間、いつ無くなってもおかしくない関係に対して巡り巡る不安が出てきてしまう気がするので、そうした概念やかたちが社会のスタンダードになったときに果たして私はそのマインドセットに耐えられるのかな?って思っています(笑)。
佐伯: 将来への恐れとか不安とかってやつですよね。
日比野: 先の見えない不安というものは常にがあるので、今にフォーカスするという考え方はわかるし、関係性だけでなくいろんなトピックにおいて、自分もそういうマインドを持つことはありますが。
佐伯: うん。
日比野: 人って立ち返ってみると、何らかのよりどころというか、自分がこうありたいとか、少なくともこうなのかなと思える指標やサポートみたいなものが必要になってくるのだなというのを改めて感じたりしています。そもそも不安と思わない人もいるのかもしれないですが。
佐伯: うん。さきちゃんもおれもだけど、世の中の変化を感じてる人はみな一様に不安を感じると思うんだよね。さらにいうと不安の大小もあると思われる。自分なんかは、不安もありつつ変化をすごくポジティブに捉えちゃう。
日比野: たぶん自分の人生に関わる深刻な部分だったり、何かに影響するだろうなっていう部分に対しては、不安に思うんでしょうね。そうじゃないところはそんなに不安にならない。フレキシタリアンの人が増えても不安にならなくて、「ああそうか」と思う感じなんですけど(笑)。家族やパートナー、仕事、暮らす場所や暮らしに関わる社会システムなどが変化して、わからなくなってきたときにどう感じるか、感じていけるか。新しいあり方があっていいと思います。多様性が進んでいく先に、新しいあり方に賛成じゃない人は違うといった対立的な姿勢がとられていくと、マジョリティとマイノリティやスタンダードとそれ以外のものが、二項対立的にジャッジされがちという根本的な構造に変化はみられない気もします。
佐伯: うんうん。
日比野: オルタナティブなケアの在り方ってどんなものなのかなと考えたりもします。わかりやすい例で言うと、シチュエーションシップの記事を調べた時、メンタルケア関連の記事が多く出てくるんですよね。シチュエーションシップという曖昧な関係のときにありがちなことですけど、2人の間で、1人が望んでいることと、もう1人が望んでいることに相違がある状態の時、どちらかがメンタル的に健康的じゃない状態に陥る危険性を専門家などが指摘しています。こういった関係がトレンド化して、増えていくときに、そうしたメンタルケアを自分でうまくハンドリングできるか、そういった側面も考慮して、関わる相手もケアできるかといったことを考えるための、エデュケーションだったり、共通理解を持てる場を作ることも大事だなと思っています。あくまで例として挙げましたが、どんなトピックでもいえることだと思います。新しいものが出てきたり、カオスな状況が生まれた時、傷付いた人が傷つきっぱなしで壊れていかない、自分でも相互でもケアできる体制も考えていけるか、どう考えていくのかもセットで必要になってくるなと感じます。
佐伯: 確かにそれは必要ですね。
日比野:若い世代の人たちは、私たちとは違う環境の中で育っているので、こうした新たな概念でてきたり、カオティックな状況にも順応できるかもしれないですが。
佐伯: ちゃんと社会の中で生み出していかないといけないんでしょうね。傷ついた人をケアするってところは人以外の例えばAI搭載のロボット的なものには任せられないと思うんですよね。
日比野:曖昧さを保つ、その時々の何かを優先していくような風潮のなかで生まれるダークサイドみたいなものも、自覚しながら、対処していくことは大事ですね。
佐伯: うんうん。立ち直っていかないとダメなんだけど、ケアがしっかりしていく社会に向かっていくには、おおそらくビジネス的な考え方や慣習も変わっていかないと、駄目っすよね。たぶん、、、。多くの人が営利企業に所属していて、儲かる儲からないみたいな基準でものごとを見てしまう習慣がついてしまっているというか、、、。 話しが戻っちゃうんだけど、やっぱり俺はみんなの意識や生き方が少しづつ変わってきてるというのは、全体的にはいい流れだと思うんですよね。問題点も抱えつつ。
日比野: そうですね。色んなオプションが育って価値観が変わってきている。変容しあう価値観のはざまでサバイブしていくのは複雑でもあり、興味深いですね(笑)。
自分をひらいておく
佐伯: 確かに(笑)。こういう変化する価値観の狭間をサバイブする上では、答えを出すことを急ぎすぎず、さきちゃんと俺みたいに、こういういう会話を重ねていくことが大事だと思うんですよね。今って、みんなが先が見えにくい将来の不安に対する答えを探してさまよってる気がしてて、、、。
日比野: 本当にそう思います。
佐伯: 例えばなんだろうな。わかりやすい例で言うと、「子育ての正解を教えてください」に答えますというコンテンツが増えてたりとか。当たり前の話、人間なんて1人1人違うので1個の答えなんてあるわけないし、自分なりのやり方を工夫しながら見つけていくのがいいと思うんすけど、真面目な人ほどベストオブベストな答えを外に探し始めちゃうんですよね。多分。
日比野: 確かに、答えを知るということがゴールでもないですよね。
佐伯: うん。
日比野: そもそも答え自体があるのかもわからないですしね。
佐伯: うんうん。
日比野: ひらいておくことの重要性を感じます。答えを求めたり、答えを出したりするわけではなく、思うことを話したり、インスパイアされたりという、その化学反応やプロセスを含めて受け取る。そこで何かが終わるわけでもなく、常にサイクルしてる状態の一部であるといった感覚でアクセスしてみることや受け取ってみることの大切さを感じます。よく話し合いをしましょうと言うと、話し合いがゴールになりがちな気がします。でも、それはゴールでも解決でもなく、プロセスの一つなんだと思うんですよね。
佐伯: うん。
日比野: 特に、対立構造が生まれやすい状況において、話し合いをすることがゴールや解決になってると、双方が主張しあうかたちに陥りやすく、なかなか進展がなくて、それもしんどいのかなと。
佐伯: うんうん。
日比野: 話すことのプロセスを経ないと得られないことや生まれない反応があるから試すことは大事ですけどね。
佐伯: その反応の部分の話は、意見の違う相手と話して変わる前提がその人の中にあるかないかも大きいよね。
日比野: そうですね。そのスペースがあるかないかはとても大きい。繋がっている話なのかはわからないですが、自分の中でいろんな物との化学変化を促したり、循環させるフックや、余白のスペースを持っておくことは心がけています。自己や他者に対するケアの種が育つフックやスペースを日常の中にいくつか持つことは、すごくセーフティなことなのかもしれないと感じています。
佐伯: うんうん。
日比野: カオスや難しさの中で揉まれて、傷ついたり、辛い状況にある時に、こうやって話をすることで、なにかを受け取ったり、自分の中から出していくと、それらのプロセスの中で化学反応が生まれて気持ちが変わったり、考え方が変わってくることはあると思います。こうした日常の何気ない会話や、会話でなくても出し入れできる何かにアクセスできる感覚を持っておくことは、柔軟性や変化に対する耐性になってくるのかな?というのは、佐伯さんの話を聞いていて思いました。日常でこういったやり取りや気づきがないと、どんどん固まっていきそうですよね。
佐伯: 頑固親父みたいに(笑)。柔軟性ないと強い力がかかった時にポッキリ折れちゃったりするしね。
日比野: ひらいておくことは悪いことじゃないですよね。自分の興味関心のセンサーからいろいろなものを見て、聞いて、経験することで、繊細な部分や背後にある文脈なども感知して、考えいける能力を鍛えることって大事。普段からひらいておかないと気づかなかったり、入ってこない気もしていて。
佐伯: うんうん。
日比野:矛盾するかもしれないですが、別に分かり合おうなどといった前提ではなくて、閉じずに触れてみるだけで良いかなと思っています。火傷することもありますけどね(笑)。そういう姿勢は、結構面白いかも。
佐伯: 大事っすね。
日比野: そういうこと考えていたからなのか、自分の感覚や流れにのってみたからなのか、自分の生活の拠点も一つではなりつつある今があるのかな?(笑)。これもセルフケアなんですかね?(笑)。もちろん怖いんですけどね。
佐伯: それは、、、一番いいっすね(笑)。
日比野: (笑)。
佐伯: そういうのってやっぱり日常でやってないとなかなかその感覚は身につかないよね。
日比野: ですね。
佐伯: いやぁ。短い時間だったけどめっちゃ楽しい話ができました。さすがさきちゃん!もっと話したいけど、一旦記事にするのはここぐらいまでにしておきますね(笑)。やっぱりベルリン行かないとだね(笑)。またセッションしましょう!
日比野: はい〜。
日比野紗希(ひびの・さき)プロフィール
ベルリン・パリを拠点とするエクスペリエンスデザイナー、リサーチャー、キュレーター、ライター。Hasso-Plattner-Institut Design Thinking修了。
デザイン・IT業界を経て、LINEにてUXデザイナー・プロジェクトマネージャーとして勤務後、2017年に渡独。現在は、ヨーロッパを拠点に、アート、デザイン、テクノロジー、カルチャー、エコロジーなど領域を横断するプロジェクト企画、リサーチ、マネジメント、コーディネーション、執筆など国内外のプロジェクトに携わる。
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