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論考:政治とルサンチマン

  • 執筆者の写真: Shinichi Saeki
    Shinichi Saeki
  • 7月14日
  • 読了時間: 10分

政治とルサンチマン

なぜ、あの候補者が支持を集めるのか?

 最近の選挙戦で、外国人に対する差別的な発言を繰り返す候補者が一定の支持を得ている場面を見かけます。 「なぜ、こうした言説が受け入れられてしまうのか?」 と戸惑いを覚えた人も少なくないのではないでしょうか。これは日本国内に限らず、世界的にも同様の傾向が見られると思います。


 その背景にあるものとして、私は「ルサンチマン」という概念が頭をよぎりました。社会不安や劣等感を刺激し、その怒りを「他者」へと向けさせることで支持を得る政治的手法が、コロナ以後の社会、そしてSNS時代において、より拡散されやすい構造にあるのではないかと感じています。ここで言いたいのは、保守やリベラルといったイデオロギーの話ではなく、社会全体における傾向としての問題です。


ルサンチマンとは何か?

 ルサンチマン(ressentiment)とは、哲学者ニーチェが論じた心理的概念で、

「行き場のない怒りや劣等感が内面化され、他者への否定や攻撃として現れる感情のメカニズム」

を指します。


 本来であれば「悔しい」「羨ましい」「悲しい」として表現されるはずの感情が、社会的な抑圧や自己否定の中で言語化されず、


「あいつらのせいで、私たちは不遇なのだ」


というような怒りに変換されてしまう。この変換プロセスこそが、ルサンチマンといえます。


 現代では、SNSや匿名空間がその感情を加速させる温床となっています。たとえば、SNSで流れてくる“キラキラした”投稿を見て、「なんだかイラっとする」「どこかモヤモヤする」という感覚を覚えたとしたら、それはごく小さな、ルサンチマン的な心の疼きかもしれません。


 怒りから派生した陰謀論や不満の連鎖は、過激な表現になりやすく、それゆえにアルゴリズムの好物(インプレッションの多い情報)でもあります。つまり、SNSの構造そのものが怒りを拡散しやすくしているのです。 そしてその怒りは、共鳴し合う声を通して「そうだ、そうだ」と反響し合い、次第にエコーチェンバー化した集団として、ネット上で組織化されていく、、、。


なぜ政治は、ルサンチマンに依存していくのか?

 現代の政治家がSNSやメディア環境に適応しようとすればするほど、どうしても「わかりやすさ」や「敵の設定」が求められる傾向があるように感じます。

怒りに寄り添う言葉は、冷静な正論よりも受けが良い = SNS上でバズりやすい。


 「私たちを苦しめているのは誰か?」

 「変わらないのは、あいつらのせいだ」

 「おかしいと思っていたのは、あなただけじゃない」


こうした言葉は、ルサンチマンを抱える人々にとって、自分の怒りを代弁してくれる正義の声に聞こえる側面があります。

 しかし、それは本当の意味での希望や共感に基づく政治ではなく、怒りによる動員、もしくは扇動と呼ぶべきものかもしれません。SNSに最適化された政治言語は、理性や熟慮のプロセスを飛び越え、感情の即時的な共鳴と、善悪二元論的な快楽へと流れ込みやすくなっています。

 それこそが、現代の「ルサンチマン政治」の危うさのように思われます。


ルサンチマンを毒のままにしないために

 では、ルサンチマンとは、ただ否定されるべき「悪」なのでしょうか?それは、誰しもが抱え得る「痛み」や「嫉妬」、「妬み」といった、人間らしい感情の一部です。


 重要なのは、それを他者への攻撃へと転じる前に、どうにかして共感や対話へと変換する回路を社会が用意できるかどうかという点です。

ルサンチマン的な感情を抱いたときに、

 「自分の痛みを言葉にしてもいいんだ」

 「誰かと共有しても大丈夫かもしれない」

 「もしかしたら、わかってくれる人がいるかもしれない」

と感じられる社会やメディアのあり方が、これからはより必要なのではないでしょうか。

本来、こうした感情の共有は、家族や友人関係、学校や職場の中で自然に行われてきたものでした。


 しかし、現代ではこの「当たり前」が少しずつ失われつつあるように思えます。少子化、核家族化、晩婚化、長時間労働、そしてスマートフォン中心の生活、飲み会の減少などなど…。これらの要因が、誰かと感情を共有する機会を減らし、孤独感を加速させているのかもしれません。

ケンブリッジ・アナリティカ —— 怒りを煽り、ルサンチマンを動員するデータ戦略

 ルサンチマン政治の典型例として、ここで「ケンブリッジ・アナリティカ事件」を振り返ってみたいと思います。これは、怒りや不安といった感情がいかにデータとして捉えられ、政治的に利用されたかを示す、極めて象徴的な出来事でした。

 ケンブリッジ・アナリティカ社は、FacebookなどのSNSを通じて数千万件の個人データを取得。その情報をもとに、ユーザーの性格や不安傾向を分析し、特に孤独感や社会的劣等感を抱えていた層、たとえば、政治的無関心層や「インセル(非自発的独身男性)」と呼ばれる人々に向けて、怒りを喚起するように設計された政治広告を大量に配信しました。


 これらの広告の特徴は、単なるプロパガンダではなく、「怒りを抱かせ、共感を誘発し、自己拡散させる設計」がなされていた点です。

たとえば、


  • 不法移民が治安を脅かしている、といった誇張された映像や統計

  • ヒラリー・クリントンは国境を開けようとしている

  • 失業した労働者の映像の背後に「トランプ=改革者」のイメージを配置


といった内容が、個人の“心理的急所”を狙ってピンポイントに届けられました。結果として、トランプ大統領の当選や、ブレグジットといった大きな政治的選択が動かされる一因となったとも言われています。

 この事件は、「ルサンチマンという感情をデータで可視化し、精密に動員することが可能な時代が到来した」ことを、私たちに強く突きつけたのではないでしょうか。 ケンブリッジ・アナリティカに関する詳細は、以下の書籍がオススメです。マインドハッキング: あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア

コロナと孤独、そして「脳の同期」の喪失

 さらに、ルサンチマン的な感情の拡大には、コロナ禍以後の社会構造の変化が深く関わっているように思えます。私たちは長期間、直接人と会って話すことが制限され、沈黙や雑談、視線のやりとりといった、言葉にならない共感の回路を失いました。

 興味深い研究があります。対面での会話においては、人と人との間で脳の同期が起きやすく、信頼や共感が自然と生まれやすくなるというものです。しかし、オンラインの会話ではこの脳の同期が起きにくく、たとえ言葉を交わしていても、「つながっている感覚」が乏しくなる傾向があることが分かっています。(参考書籍:スマホはどこまで脳を壊すか/榊 浩平

 つまり、私たちはこの数年間、話しているのに、つながれていない、という感覚を日常的に経験し続けてきた。その結果として孤独感が深まり、怒りや不信がSNSへと流れ込みやすくなったのは、ある種、構造的な必然だったのかもしれません。

怒りが増幅される時代に、私たちはどう応答できるのか?

 今、私たちが直面しているのは、単なる政治的分断やSNSの問題ではありません。それはむしろ、孤独と怒りが制度的・文化的に積層された社会の構造そのものなのではないかと感じます。

だからこそ、必要なのは


  • 他者の痛みに想像力を持つこと

  • 怒りの感情を、孤独の共有へとつなぎ直すこと

  • 生身の関係性の中で、沈黙や矛盾を抱えながら語り合うこと


 こうした一つひとつの行為を通じて、怒りを“共感の言葉”へと変えていくための、小さな「回路」を社会のあちこちに築いていくことが、いま私たちにできる営みなのかもしれません。


 怒りを持つことは、決して悪いことではありません。大切なのは、それを「誰に」「どのように」手渡すか。その選択こそが、私たちの社会のあり方を、静かにかたちづくっていくのだと思います。 本項に関連して以下の記事がオススメです。「わかりあえない」人とどうつきあうか 平田オリザさん「学びのきほん ともに生きるための演劇」

追記:アナキン・スカイウォーカーの闇堕ちに見る、ルサンチマンの物語

 ルサンチマンが膨張し、怒りに身を委ねたとき、人はどう変容するのか。それを描いた物語として、私は『スター・ウォーズ』に登場するアナキン・スカイウォーカー = ダース・ベイダーの姿が思い浮かびました。



 アナキンは若くして天才的な能力を持ちながらも、ジェダイ評議会からの承認を得られず、師であるオビ=ワンとの摩擦や、愛するパドメを失う恐怖に苛まれていきます。

彼の内面には、

  • 理不尽な制度に対する怒り

  • 理解されない孤独

  • 承認欲求の挫折

  • 愛と喪失の不安

といった、抑圧された欲望と痛みの蓄積がありました。

 彼は「正義の名のもとに行動している」という確信を持ちながら、次第にその怒りを「他者への否定」へと変換していきます。

 「彼ら(ジェダイ)が自分を阻んでいる」

 「本当に腐敗しているのは、あいつらの方だ」

こうしてアナキンは、かつて信じていた共同体を否定し、怒りに導かれるままに暗黒面へと堕ちていく。そして、自分の正義を守るために、ついには他者の命までも“怒りを正当化するための道具”として扱うようになるのです。

作中でヨーダが語る、有名な台詞があります。

「恐れはダークサイドに通じる。恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へ。」


これはまさに、ルサンチマンが個人を内側から蝕み、自他を破壊するまでの過程を描いた警句ではないでしょうか。

追追記:『ダークナイト』に見る、希望とルサンチマンの背中合わせ

 もう一つの印象的な物語として、映画『ダークナイト』に登場するハービー・デント=トゥーフェイスの闇堕ちもまた、ルサンチマンを映し出す寓話のように感じられます。



ハービー・デントは、物語前半では「ゴッサムの白い騎士」と呼ばれ、法律に基づいて腐敗に立ち向かう理想主義者として描かれます。

しかし、ジョーカーの策略により、

  • 愛する女性(レイチェル)の死

  • 自身の顔に受けた大火傷

  • 警察内部の腐敗との直面


という深い喪失と絶望を経験した彼は、その正義感が、次第に復讐心と破壊衝動へとすり替わっていきます。

「この不条理を正すには、自分が裁きの手を下すしかない」

その瞬間、彼は希望の象徴からルサンチマンの体現者へと変貌します。

そして、この変貌を導いた存在こそがジョーカーです。


ジョーカーという現代のデマゴーグ

ジョーカーは「混乱」そのものとして描かれていますが、その手法は極めて現代的です。

彼はSNSを使うこともなく、ただ人々の内にある怒りや不安、正義感の裏側にあるルサンチマンを巧みに刺激し、転化させるだけでゴッサム全体を混乱に陥れます。

 「人は秩序が崩れると、簡単に本性を現す」

 「善良な市民も、状況次第で怪物になりうる」

彼の言葉は、人間の脆さを突き、社会の信頼を崩壊させていきます。

物語の終盤、バットマンは堕ちたハービー・デントの真実を市民に知らせるのではなく、自らが悪役となることを選びます。それは、ルサンチマンが拡大するのを防ぐために「希望の物語」を守るという、ある種の犠牲でもありました。

この選択には、

  •  怒りにどう対処するか?

  •  真実よりも秩序が優先されるとき、私たちは何を守ろうとしているのか?


という深い問いが含まれているように思えます。

そしてそれは、私たちがいま直面しているポピュリズム政治やSNSの時代とも、どこか通じ合っているのではないでしょうか。


おわりに

現代に生きる私たちは、誰もが小さなアナキンであり、時にハービー・デントのように揺れ動いています。誰しもが抱く可能性のある怒りをどう手渡すか。どこで誰と共有するか。

その選択の積み重ねこそが、社会の方向性を決めていく気がします。

共感の言葉、小さな回路、怒りの受け皿——

それらをどう築いていくかについては、また別の機会に、改めて書いてみたいと思います。

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