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象徴国家論への旅 - 4

  • 執筆者の写真: Shinichi Saeki
    Shinichi Saeki
  • 5月22日
  • 読了時間: 48分

更新日:5月23日

Dugup?編集部が尊敬する、ペンネーム Nda Ha Satomohiさんからご寄稿いただいての「象徴国家論への旅 - 第四回」をお届けします。


私たちのモノの見方や考え方がどういった状態や状況にあるのか、より鮮明に浮かび上がってきているように思います。今を生きる全人類にオススメしたい内容です。是非ご覧ください! 第一回第二回第三回がまだの方、是非ご覧ください!

前回のおしまいの問い】

しょうた: 壊したあとにもとの再構築にならないようにするための条件といったことを整理してみたく思います。次回はそのことのヒントもうかがえることを期待しています。




N'da: それでははじめましょうか。


りん: よろしくお願いします。今回はわたし、りんとあかりさんが対話のお相手をいたします。まず、わたしから、、、前回しょうたくんがおしまいに残したメッセージを引き継いで、わたしも抱いた疑問を含め、はじめさせていただきます。


N'da: はい、よろしくどうぞ。


りん: わたしもプラトンの線分の比喩をメビウスの帯で脱構築した図にとても惹かれました。それがよくある再構築とは質的にちがっていて、名前を変えただけとか、横のものを縦にしたとか反転した、というだけで結局、もとの階層構造や上下関係という構造そのものは維持されたまま、だから再構築を促したそもそもの問題は温存されている、というよくある問題を乗り越えていることもわかり、デコンストラクションの焦点をつかむことができました。

 この焦点をいっそうはっきりさせるためにも、しょうたくんがいっていた単なる再構築、リストラやリノベーションと、脱構築、デコンストを分ける決定的な条件を知りたいと思います。


再構築と脱構築を分ける決定的な条件


N'da: そうですね。でもそれはすでにりんさんが語ってくれていることに尽きると思うけど、そもそも再構築を図ろうとするときに、それをしなければならなくなった原因にある構造の問題、たとえば組織であれば権力構造、言い換えるなら指揮系統のような仕組みは当然の如くのように残して、名称や形式をかえるにとどめる。つまりお化粧のし直しがリストラクチャリングですね。それだけではあまりにも能がないから、加えて多少の統合、組み換え、廃止、新設をして構築をし直すとか、構造のパーツ自体、つまり組織なら中身の人を変えるなどしますが、まさに構築のし直しをするわけだから、再構築というわけです。むろんこの再構築そのものがけしからんといっているわけではない。前回別の話題で取り上げられたリストア車や古民家再生のように、まさにお化粧の部分や外側が痛んだけれども枠組みはしっかりしているからそこは積極的に残すというケースもある。その場合はまさに再構築そのことが目的になるわけです。

 でも、ものごとには枠組み、根幹が腐ることもある。いやそれでも枠組みの設計そのものはよかったのだから、そこからまたあらたに再構築しよう。そんなこともある。けれども、そうではなくてその枠組みや設計自体、あるいは設計思想がもつ問題性が解決対象になることがある。その場合に、枠組みのオプションにはいくつもある。今度はどれにするとか、思い切ってその枠組みをひっくり返してみよう、とか思い切って枠という考え方そのものを取っ払えないのか、といった方向に動くこともある。ここには改善に加えて革新性が含まれるのでリノベーションということになるかな、でもこれもまた結局はなにかあらたに組み立てることになるのだから再構築の範疇になる。

 じゃあ、どうなりゃ「再」でなく「脱」になるのでしょう。


あかり: 身も蓋もないですが、構築すること自体をやめるというか、あえてしない。


N'da: そう、そのとおり。デ・コンストラクションということはまさに構築という方向に向かわないということ、だけど、それはむろん何もしない、つくらないということではない。何を構築しないことにするんだ。その「何」の部分がポイントになります。


脱構築の焦点


あかり: 問題を生み出す構造。つまり、構造のなかに上下関係とか、力関係、中心-周縁。ジェンダーでいえば、男女の差や違いのことではなくて、その差異にアンフェアな特権を構築してしまうこと、その後者の部分が脱構築の焦点ということでしょうか。


N'da: そういうことです。それをもういちど線分の比喩の脱構築で確認しておきたいと思います。ここであらたな図を示します。これは前回と同じメビウスの帯を方向を変えて示したものです。なによりも方向を変えてみてもここで表現されていることの意味は変わらないということを端的に確認したかったことがあります。それに加えてより重要なことに、この図では前回のものに加えて、もとの線分の両端



に位置づけられていた、ここに照らして言い換えれば、構築されていたAとBだけど、その接合部分に赤い矢印を書き加えています。

 この矢印はこれが静止画である都合上、ある一瞬の光景を捉えた姿であることに留意してもらいたくて、その動態性を表現したかったからです。この帯は動体であって有機体としてうねうね動いている。全体が動いているだけでなく、ABCDEとされた部位もその順序の関係性は保ちながら帯のなかで止まることなく流れ動いている。つまり、この矢印はABの接合部もCもDもEの位置も、むろん真と偽の表裏も別の時には帯の別の場所へと動いていて、ここに描かれた布置とはちがっているということです。

 もとよりこの帯は表をたどればいつの間にか裏になり、表を真としてもどちらが真で偽かは定め得ずひとつづきということが特性でもあるわけです。この帯はある性質の構築、建て付けが定常せずに流動している。その無常性が特権形成の業を押し流してしまうのです。


りん: それは、しびれますね。


あかり: わたしはいまお腹が空いているので、つい食べ物を連想してしまうのだけど、もしメビウスのパスタを作ったら、このツルツル感ではソースは辛いオリーブ油よりもクリーム系のほうが相性がいいかな、なんて、、。


りん: それも確かに。


N'da: だったらここはバスタ系の配色で図を作っておけばよかったですね。なんだか、今日は始まり早々、ランチにしてしまったほうがよい感じですね。でも逆にその食欲をそいでしまうかもしれないけれど、むしろ翁としてはこのメビウスの帯からは活動体としての有機性を感じ取って欲しいのです。


あかり: 有機性、、、オーガニックか、、。


りん: 生命的な?


機械論わたしたちにこびりついた思考規範


N'da: そうです。前世紀に広く人びとの思考規範となり、ものごとの考え方、見方を強く支配したもののひとつが機械論でした。むろんその淵源はずっと以前、それこそ17-8世紀のデカルトやまさに『人間機械論』を著したラ=メトリなどに遡れるけれど、彼らの発想のあとで起きた産業革命が人間の力をけたたましく増強、拡張し、生産や移動に、文字通りの超人としての力能をわたしたちにもたらした。その機械、さらにはそれを組み上げ、操作する人の働きも組み込んだメカ・システムという存在が、人々の日常生活にさまざまなかたちで浸透し、その補綴(ほてい)なしでは生活がなりたたない状況にまで至らしめたのが20世紀の歴史の一面でした。


あかり: 補綴ということばは初めて聞きました。


N'da: 身近には補綴具だらけだけれど、ことばは伴っていないですね。多くのみなさんがつけているコンタクトレンズや入れ歯はその典型だし、移動手段としての自動車も電車も飛行機も、エアコンもひと昔前は贅沢品だったけれども昨今は猛暑下で生きていくための補綴機になった。もっといえば、武器はむろんそうだし、今世紀に入っては電子ネットワークとみんなの手元にある端末ですね。つまり人類以外の動物と人類を画するものはさまざまにあるけれど、とりわけ近代以降に著しくその隔たりを大きくしたのは生身の人に接合したこうした機械・器具・装置ですね。このありようを補綴というわけです。


りん: 補綴具付きのわたしたちは見方によっては、半ばサイボーグとして生きているともいえますね。


N'da: スマホなしでは生きていけないと感じているデジタル・ネイティブ世代のその思いはまさにそれを端的に感じさせるものがあります。こうしたウェアラブル端末はそれらを身体に埋め込んでしまう一歩手前にあるというところでしょうか。

 ただ、個人のそれもそうだけれども、その一歩手前ではまさにライフ・ラインと呼ばれている電気・ガス・水道・通信は人間共同体を補綴する大規模システムとして近現代社会を支える構造、インフラ・ストラクチャーと語られるように不可欠なものになっている。これも生物としてのヒトが生きていくために必須なものではないけれど、大方の都市生活にあってはこれが絶たれることすなわち路上生活を意味するような時代になっている。もっともその路上生活自体も都市インフラがあったうえで成り立っているようにもみえるけれども。

 それに百年ほど遡って前世紀に起きた世界大戦はまさに機械による補綴ありきの大きな戦であったし、その幕引きは人類の絶滅を予示する機械的な悪魔仕掛けに終わった。その時点で機械装置は人類拡張から大きく旋回して人類滅亡に直結する方向へと進み、人々を支配する存在へと昇りつめたわけですね。

 その後は現在に至るまで人類が直面している危機的課題は原子力やネットや人工知能を典型に、機械システムが内在させている制御不能性と対峙しつつ、それに人がどう対応できるかという話になっています。だから、補綴はもはや侵犯に転位したというべきかもしれません。しかもその侵犯性への解を見つけられぬままにありながら、その補綴力に浴しつづけているという大きな潜在的不安のなかを生きている。あの『新世紀エヴァンゲリオン』が大ヒットしたのも、その不安が見事にテーマになっていたからではないでしょうか。もっともこれも一世代前の話でふたりには通じないか。


あかり: いや、エヴァはリアルタイムではないですが、観ているのでわかります。


N'da: さらに遡ると前世紀後半の1970年に大阪万博があって、翁は中学生だったけれども、原爆炸裂から25年、その時掲げられた標語はいまもずっと頭に焼き付いていて「人類の進歩と調和」。科学技術とそれに支えられた産業に対する信頼と希望が子どもの目にはゆるぎないものとして感じられていました。ただ同時に表面化していた数々の公害問題は忍び寄る不安の前触れだったように回想できます。

 ただここで話の焦点にしたいことは、こうした人類における機械補綴の状況や、有機と無機の接合に対する必然の免疫反応ともいえる不安といったこと以上に、わたしたちのものごとの考え方、思考規範に及ぼしてきたメカの影響のことです。

 こうしたここ百年ほどの時代の流れのなかで、この機械とともに生きてきた人間がその機械類を設計し、使い、あるいは使っていると思いながらもそのなかに組み込まれ、逆に機械やそのシステムに使われている結果となって不安を抱えつつ、それでもその不安を覆い隠してしまうほどの莫大な利と恩恵をそこから受けてきた。そうした強固なバインド状態のなかで、その機械、機械系に準じた思考方法、すなわち「メカニカルな」考え方にはすっかりと感化、習慣化され、発想はもとより想像の仕方も問題発見や問題解決の仕方もすっかり機械論ベースでなされるようになってしまったということです。


メカニカルにメカニズムを追って


 これはわたしたちと機械系との関係における緊密な補綴というありようからして至極当然のなりゆき、つまりごく自然な結果でもありました。それがおのずから然りという流れであったからこそ、そこに疑義を呈する批判的な眼差しもなかなか向けられ難かったともいえます。

 だから、なにかを研究、探求するときに、それが生物/生理のようなまったくの有機的なことがらが対象になっていても「しかじかのメカニズムの解明」といった表現を当たり前にするようになってしまいました。それが学術論文のタイトルであっても、なんら疑問に付されることなく受容されます。「脳の海馬CA4領域を構成する諸神経細胞とグリア細胞間の記憶固定化メカニズムの全容」などとなると世紀の大発見になることでしょう。一応カタカナを嫌ってここに機序といったことばを当てることもあります。でもどうあれこの論文はその標題からしてすでに十分怪しい話となるのがここで語っていることです。だって細胞は機械ではないですから、たったひとつの細胞でさえ、機械のように表現することはできたとしても、それゆえにしきれないところが残される。そうである以上、それらの集合について語れる機械仕掛けのようす、すなわちその機序、メカニズムというものがどんなに明晰判明にあきらかにされようと、それは機械的に表現できるかぎりでの関係にとどまらざるをえないことを宣していることになる。そこからとりこぼされることの総量は集合の度合い、つまり語られることがらに関与することの複雑さが増すほど当然大きくもなる。

 メカは生体、有機体に対してはどこまでもアナロジーでしかない。だから、そのメカニズムをどんなに明晰判明にしようと精緻化しようと、類比は類比のままであり、類比の積み重ねになれば類比でさえない化け物にさえなりうるおそれもある。その変化は漸次的なのでどこで化け物に転化するかもつかみきれない。だからそこがまた危ういわけです。まあ、もちろん科学の歩みは漸進であって一つひとつの成果はsomething newを当然とするという了解のもとにあるのだから、メカニズムの解明過程も当然、許容できるのですが、メカニズムがわかる、ということに到達点を重ねみるかの判断は直ちに機械論的囚われからの脱出というより大きなテーマを喚起させるのです。


あかり: それを聞くとそれこそアナロジーになるかもしれませんが、いま盛んになっている生成AIのことを思います。検索と検索をつないで文章化したり画像化したり、それらを次第に重ねていくと、あたかも真っ当であるかのようなとんでもない誤りを含んだそれらしいものができてしまうことが多々あります。でも、その誤りへと入り込む分岐点をおさえることがむずかしいので、結果にいたったときに、どこまでこれでよいのか判断をつけることがむがかしくなる。そうしたことはメカのシステム的な動きにはありますね。


りん: わたしも生成AIでとくに画像生成の場合はとても感じます。ハンドメイドの感覚ではシュールすぎてとても組み合わせないような組み合わせをAIは平気ですることが多くて、それだけに驚くことはあるけれど、これはないな、ありえないとか、単純に気持ち悪いと感じる生成は多々あります。実用的にはそれを選ばなければいいだけだけれど、あまりにも能天気な生成ぶりに呆れて、つきあいきれないと感じることは結構ありますね。また、それだけに文章の生成になるとそうした直感的な気持ち悪さが感じ難くなるので、どこがとんでもない間違えになっているかがわかりにくくなるという怖さを感じます。


N'da: 生成AIについては今はほんの黎明期にあるから、おかしなことが山ほどあることをむしろ踏まえてのことというところでしょう。つまり、ユーザーの側の選択的利用が増大していくことで、もっともらしさの生成が促されていくという方向への期待はとりあえず語れますね。ただもちろんこの動きはメカによる制御不能性が色濃く映し出されるところなので安易に楽観視できないとも思えます。AIについてはだいじな問題が多々含まれていて語り出すとそっちの方向にどんどん入り込みそうだから、これについては機会をあらためてまた考えましょう。


有機的思考におけるメカとのつきあい


 ここでの話はもとより人為・人工によらない生体・有機体のことを、人の細工による無機物の組み合わせでつくりあげた機械とその組み合わせの仕組みによって類比的に考えてみれば、という制約つき、つまりフィクショナルに始めたはずの語りがいつの間にかその制約を忘れて、メカニズムが描けたことをもって元来の問題対象のことをノンフィクショナルに解き明かされたかのようにみてしまうこと、そこにある手抜かり、不注意を、あえてかなり神経質に気にしたいということでした。


りん: 認知科学の講義ではわたしたちの知覚や記憶といった認知機能について、いろいろなモデルが語られていて、なるほどそういう仕組みになっているのか、と思いますが、実際はその「なるほど」という納得の仕方はよろしくないということでしょうか。


N'da: よろしくないとすれば、どのような点で?今りんさんは認知科学のことを例に出されたのでそのなかの例で振り返ってみるとどうですか。


りん: そうですね。記憶の仕組みで感覚貯蔵とか短期記憶と長期記憶といった話があって、それをコンピュータのバッファとかストレージの仕組みと関連づけて説明されていたことなどは、とてもわかりやすかったです。でもそれは実際に手元にあるコンピュータを例にした類比モデルになっていたから、単に納得しやすかった、ということでしょうか。


あかり: それとわたしもその授業はとっていますが、脳の中でもそのような仕組みになっているのだろうなあ、ということが経験的にも思い当たるように思えて納得したということもあります。たとえば、短期記憶には容量があって、それは7つ前後だといわれると、確かに携帯の番号は長すぎて一回聞いただけでは短期記憶として覚えられないけれど、自分自身の番号は長期記憶になっていておそらく脳のどこかにストレージのようなところがあってそこを検索して思い出しているのだろうとか、認知症では短期記憶を長期記憶に移行する箇所が衰えてしまった結果、さっき言ったことを繰返し話すようになるとか、、自分の経験上でも納得できるモデルだと思えました。


N'da: そうですね。記憶という現象の生態をみると、まさにそういう性質を観察でき、一口に記憶といってもいくつかの性状が認められそうだということは実感できます。ただ、ではPCの電源を切ったらたちまち消えてなくなる内部メモリーとか、切っても残るメモリーの違いは仕組みもそれを担う特定のデバイスも人がつくったものだから当然同定できますが、神経系には長きにわたってそうした個々の機能を身体内、脳内に局在させ同定しようとする試みはつづけられてきたけれど、どうやらデバイスのようには切り分けて部位を同定することはできそうにないことがみえてきています。

 中枢神経系には細胞構成や形態的な構造の違いなどにもとづいて部位を区分して名称がつけられていて、それぞれの部位がどのような機能に関連しているらしいということはだいぶ知られるようになったけれど、機械のようにはじめに特定の機能をするデバイスを設計してその組み合わせで機能を発揮させているわけではないから、情報処理システムのチャートで描くように、ここが短期記憶、そこから矢印を引いて、つまり神経連絡をつけてこっちにくると長期記憶といった具合にはなっていそうもない。中枢神経系における視覚の短期記憶メカニズム、なんていう表題の研究論文は過去膨大に出されてきましたけれどね。

 それを記した当の研究者も「それは承知のうえだ。実際にそうなっていると述べているわけではなく、あくまで仮説としてモデルの話をしているまでだ」ということでしょうから、それならば先にもいったように科学という世界の仕事として十分です。でも、それが実際の脳の仕組みなのだと思い込んでしまう向きもしばしばだから、そのメカニズムの読み手にとっては余計にそれが実際の姿であるかのように受け止められてしまいがちです。それはなによりもすでに述べたように、現代人がきわめて強く機械論的な思考規範に馴染み、それに染まっているからです。


りん: 工学系の人にとっては苦笑いしたいところでしょうが、確かに現代人、とくに工業先進国で生活している人にとっては、生活の隅々にまでメカの恩恵に浴しているから、基本的なものの考え方もメカニカルになっていて、主義としてのメカニズムに無自覚的に取り込まれているとはいえますね。


メカと時計刻みとわたしたち


あかり: きょうも電車でね。車掌さんがアナウンスで「この電車は1分30秒の遅れで当駅を発車しました。電車が遅れ、たいへんご迷惑をおかけしています」なんでいっているのね。車掌さんにとっては大ごとなんでしょうね。機械仕掛けというとどうしても時計がもたらす規律が現代人の行動を支配していて、ここから抜け出すことは社会からの逸脱を意味するようになっていますね。


N'da: 逸脱というけれど、それはわたしという個人の自律性の回復ないしはそれへの信頼という観点からすれば意味ある脱出ですね。どうだろう。高校以前の生活から比べれば、大学での生活はそういう意味ではかなり時計仕掛けのメカニズム支配から脱出できていて自分の自律性が取り戻せているのでは、、その取り戻しは幼児の頃のまだ時計が満足に読めなかった頃の生活の取り戻しともいえるけど。


あかり: そう考えると、ときには昼夜逆転したり、かなり勝手の効く生活になっています。一番強く他律的に拘束されるのはバイトのときくらいになっていますね。ただ、いま気になったのは、これがもし時計が読めなかった頃の自分に戻ったのだとすると、発達的には退行したということになりませんか。


N'da: 個人の発達史観として右肩あがり、やがて下降といった直線的な成長感は一般常識的にあるけれど、抽象的な動きとしてとらえてみると成長という観点でも直線というより円環として捉えうる可能性はつねに残されていると思えるのです。たとえば、よい意味でいつまでも子どものときのこころを忘れないとか、半分馬鹿にされながら羨ましがられるような生涯青春といったありかたは決して退行ではなく、また円環巡回型の成長という見方もできる。それは一面からみれば堂々巡りにみえても他の方向からみると螺旋上昇の動きかもしれない。もっともそうした見方をしたがるのにも直線に伸びていく成長感への囚われがありますけどね。くるくる周回していても濃くなったり、強くなったり、厚みが増すといった見方もありうるかな。


あかり: そうですね。時計が読めなかったころの自分と同じ心境で時刻にとらわれずに生活する自分は、でも時計は読めるし使えるのだから、退行ではないし、あらたな次元で自律性にもとづく生活をしているというべきですね。


N'da: そのように自覚できれば幸いなことです。予感していると思うけど、間もなく卒業して社会に出ると、ふつうはまた学校的メカニズムにとりこまれていくことになる。いまはだから、そのメカニズムについてある程度、客観的によく考えてみることができるとても貴重な時期です。昔はね。つまり翁が学生の頃は、大学はまさに社会のアジール、歴史学者の網野先生がいっていたような公界(くがい)としてあって、時間の流れがキャンパスの内外ではちがっていた。わざわざ違うように自覚的に大学人が振る舞っていたといってもいいくらいでした。

 典型的には一コマ90分の授業時間は世間でいう2時間という見積もりになっていた。これを翁はアカデミック・アワーと呼ぶのだけれど、簡単に解釈すれば、それだけ頭を使う時間だけに濃密な時が流れるから俗世の120分はせいぜい90分標準になりうるという理屈ですね。それも標準だから授業が予定より20分遅れで始まり、20分早く終わるなんてことも当たり前にあるわけです。それでも50分のその授業はそれだけに実に双方集中できて爽快に学べるんですね。そういうその場、その時の種々の波にも合わせた自主自律的な判断のもとでの自己統制と「生きる時間」というものを、大学では実によく身につけることができた。チャイムからチャイムでまさに時計仕掛けでメカニカルに動いていた学校生活から、チャイムなしの大学にいくようになったとき、最初はそのいい加減さにとても驚いたけれども、次第にそれはあえて自律と自由の意味を体感的に考えさせてくれる場としてあるということを学べたわけです。

 でもそれが今君らの場合は実に申し訳ない話だけれど、世間の時間どおりに授業をしていないのはけしからん、といった誠にメカニカルな官僚発想、ポピュリズム的常識判断のもとに毒されて学校化された大学に堕してしまったなかでの大学生活を強いられているところが多くなってしまっているようにみえます。

 でも逆に、だからかもしれませんが、能動的に休学をしてその学校化してしまった大学から一旦距離をおいて時計仕掛けから離れた自律的生活を経験してみようといった動きも結構でてきたようだけれどね、まあ、それが一般的な動きになるのはむずかしいとしても、まだ各自が能動的にこのメカニズムというイデオロギーに対してクリティカルな眼をむけて、あまりにも機械やその派生に従順でありすぎるように思えたら、抗ってみることで得られる体験を愉しむことは、こんにち的な大学という場でもできるはずだから、ぜひしてほしいですね。


りん: まさにいまこの時間もそのひとつかと思っています。ところで、さっきのあかりの車掌さんの話はこの日本という国での不思議さの典型ともいえそうだけど、そのきっちりすぎるメカニズムのおかげで、わたしたちは携帯の交通アプリを便利に使えて待ち合わせにも予定のイベントにもぎりぎり遅れずに行くこともできている。簡単にいえば、便利とか効率とか効果とかいうことばで語れるところですが。


N'da: それはジェット機を使って世界中を飛び回って活躍するビジネスパースンといった話とつながっていくところですね。なんか超人的であるだけにその点では凄くみえてしまうのだけれど、そのジェット機という機械がなければ、あるいはそのジェット燃料を採掘し精製するメカニズムがなければ、その超人性は発揮できないわけだから、完全にメカ頼りで補綴に組み込まれた姿です。つまり生身のひとりの人間というところに立ち戻ってみたときには、凄いのはどこの部分なのか、かえってその凄さに比してひとりの生身の人の無能さが際立ってしまうことにもなる。

 時間に正確な交通と交通アプリとそのもとでのスケジュール管理や自分の行動というのも、いわば同質のメカニズム頼りのことで、そこに組み込まれての便利であり効率性、効能ということになる。

 そのメカのなかの人という結果がひとりの生身の人にとってなにをもたらすことになるか。人もただの機械にすぎないなら、そのシステムのなかで油さして壊れるまで使うというところかもしれないけれど、人の場合は人ゆえにその前にだいぶ考えざるを得ないことになるのではないですか。


メカニズム合理性の狭間で


りん: 人間関係のむずかしさとかそれによる疲弊といったことはたくさん語られますが、もしかするとさまざまなメカニズムに取り込まれて、うまくしているつもりのなかで、考え方やものの見方もメカニカルになっていてそれを当然のように思ってしまっているかもしれません。その考え方そのものと、取り込まれている状況への反省的な見方がしにくくなっていて、メカに挟まれた生身の心身が疲弊し、それが生身同士の人間関係に悪影響をもたらしているかもしれません。


あかり: 今りんが「メカに挟まれた生身の心身」といいましたが、確かにいまわたしたちはこうして生身で互いにコミュニケーションしながら考える場にいるけれど、ここを離れるとまたメカ・システムを間に挟んだやりとりのなかでものごとを進めたり、考えたりする時間のなかに埋没することのほうが圧倒的に大きくなるから、生身の心か生の心身かわからないけど、そこのどころが自然に受け止めるべきことがらが痩せ細っていることは間違いないですね。


N'da: そうですね。思考の仕方や生活規範がメカニカルになっているということだけでは済ましきれない、余剰な部分、ある場合はそれが過剰に人の考え方にはあるけれど、それがいちいちあいだにメカを挟んでいることで取りこぼされている。でもそれらは消えてなくなるというよりもきっと溜まっているのだと思う。しかもそれは決して廃棄物ではなく、むしろかえって人であればこそのたいせつなものごとだから、やりきれないところとして滞留しているはず。


あかり: 具体的にはたとえばどんなことがありますか。


N'da: それはメカニカルには割り切れないこと、便利ということと引き換えに、とりあえず見捨てていること、見ないようにしていること、本来は生身の人だからこそ受容している、してしまっていることだから、ぜひとも逆にこちらから問いたいことだね。


あかり: とても興味深かったので、話の流れに乗ってついそれこそメカニカルに尋ねてしまいましたけど、いま語り合っている文脈からしても確かに安易でした。

 うーん、いますぐ思い当たることとして、ふつう世代間ギャップの話として受け止められることで、さきほどの交通アプリのことでいうと、わたしたちは生まれたときからネット社会だったから、待ち合わせにも集合時間に間に合わせるためにそのアプリの情報を使って間に合う時間に家を出ることを当たり前にしています。交通事情で遅れが出れば連絡入れて、これこれでどのくらい遅れそうという連絡をリアルタイムで伝えます。それで遅刻のエクスキューズをします。

 でも、上の世代、たぶん翁の世代あたりからはそれで済ませていること自体が信じられないと受け止められることがあって驚くことがあります。複雑な機械システムのなかに成り立っている社会のなかで暮らすわたしたちにとっては、そうした遅刻への寛容さこそはむしろ人としてだいじなところ、とわたしたちは思ってしまうのですが、いかがですか。


N'da: なるほど、そこを寛容さとみるか。だから「信じられん」という反応になってしまうのかもしれません。確かに君らはそうして遅れてきたときに「すみませーん」などとはいうものの、すでに事情は了承済みという素振りになっていて周りの人も「たいへんだったね」なんていったりしてその寛容さや、やさしさなるものの雰囲気を共有している観を少なからず経験しています。でもはっきりいえば、だからこそその共通感覚、すなわちコモンセンス、つまり常識感には苛立ちを感じてしまうというのが本音です。

 そこに共有されているのは遅れたのはわたしのせいじゃない、スケジュールどおりに運行しなかった機械システムのためだ、そのエビデンスもあるという自信に裏付けられているのでしょうけれど、それは完全にメカニカルなシステムに組み込まれている状態の、あえていえば文字通りの「情け」なくなった人たちの姿だということです。ここでいう情けは非合理の典型です。寛容というのはその非合理性に対してなされるこころの配分であり、メカには回収不能で取りこぼされることの典型でしょう。なぜなら、メカニズムは合理的に働かくからね。

 それだけにメカニカルな合理性、つまり時刻通りに運行していればそれに合わせて行動したわたしは遅刻せずに来れた、というロジックの正当性を主張する気になるのだけれど、それはアマルティア・センが語ったことを敷衍して、合理的な愚か者になってしまっている。そして「大丈夫、わかっているよ、君のせいではないことは証明されているから」などといった理解を示してあげることが寛容さだと認識されるなら、その人たちも含めての合理的な愚か者たち、といわざるをえないでしょう。そのメカニカルな合理性にしたがう行動は生身の人としてのいわば全人的な判断によるのではなく、単にメカニズムの合理性に従って行動していたメカの論理に収まっているにすぎない。そしてみずからの行動の結果の責任をメカ合理に帰するという文字通りの情けない遅刻となっているのですよ。

 翁たちの時代のことをいっても始まらないけれど、そうしたシステムがなかった時代で育ってきた人間は、定時に運行する交通システムのなかにあってもなお、おおよその時間感覚で新宿まで何分、そこからどこそこまで何分くらいだから、プラス20分として1時間前には出ないと、といったかなり大雑把にふくらました非合理的な見積もりで出かけ、たいていは約束の時間よりずっと前に着くといったまさに不合理な動き方をしてきたわけで、そういう習性はいまもつづいているわけです。

 で、この習性はこの時代にあってはだいぶ間抜けにみえるかもしれないけれど、それにこだわるのはあくまでみずからの行為の主体性はこちら側にあって時計仕掛けを含めた機械システムに自分が組み込まれて動く感覚や運動は勘弁してほしいというところにあります。むしろ機械システムは、どこまでもエゴイスティックに使っているという感覚を保ちたいわけです。この利己性は人に対するそれではなくあくまでもメカに対する人のエゴであり、自我の情による主張です。

 むろんこっちは時刻表を事前に知っていないから、いつものペースで歩いていてホームに着いたら電車が行ったばかりなんてこともしょっちゅう起きるわけだけど、逆に発車時刻を手元の画面で知っている人たちがあわてて駅中を走っているような光景に出くわすと「ああたいへんだな」と思うことになる。どっちがメカニカルシステムをうまく使いこなしていることになるのか。使いこなすということは自由自在に使うということだけど、その自由自在に使うことのだいじな自在性には「使わない」ということもある。結果としての使役的悲哀に寛容であることは人としてみじめないたわりじゃないか。ということをいいたいわけです。


りん: 翁も本音を語ってくれましたので、わたしも本音でいえば、確かにだいじなところを指摘されていると思う反面、なんか痩せ我慢して無理している感じには聞こえます。もっと気軽に便利に道具を使えばいいのに、と思いますが。


N'da: いや、もちろんそういう具合に使っていればよいけれど、どうもどこに行くにも何を決めるにもすぐに端末とにらめっこしないと先に進めない感じに出くわすことが多いので、このときとばかりに言わせてもらった感はあります。


りん: たしかにスケジュール表の空いている時間をいろいろな予定ごとで埋めていって、その予定のあいだを急いで動き回りきることにむしろ快感を得ていて、結果、疲れている自分を振り返るとき、自分で決めていることでありながら、予定に振り回されて自分自身というものを見失っているような思いはよくします。そして動き回るあとさきも確かにメカに尋ねつつ動いているのでさっき確認したとおり、生身の自分はメカとメカのあいだに挟まれていることばかりになって,よい意味での生の実感から遠のいてしまっている感じはします。


N'da: おのれの利を第一に考えるというのは極限状態を基点にすれば自然なことだとほとんどの人は同意すると思います。その自然に適う生き方をすることは基本原則であって、そのつぎに社会への参加や契約、約束といったことが来る。つまりそれらはあくまで二次的なことだから、法のもとでの平等なんてまっびらということであればアウトローとして生きることもできるし、実際、社会から反社会勢力なんて規定される生き方も、そうするかどうか、それをお薦めするかどうかは別として、現実としてはある。ただし、それも対人関係であれば互いのエゴが衝突するからその二次的な社会でも不都合になる。でも対メカニズムに対してはあくまでもメカは補綴としてあるのであって人のエゴは貫くべきものとしてある。汗も冷や汗もかかない相手に対してこちらが汗するような使い方はするべきではないのですよ。

 結局、どこにプラグマティックな真実があるのか、いまや否応なくメカに補綴されたわたしたちは、そこのところをおさえないと、メカニカルなロジックにおされてその理が語るリアリティに引き込まれ、汗水たらすことになってしまう。あかり;プラグマティックな真実というのは実際、わたしたちの現実としてある真理ということですか。


真実と真理、そのアクチュアリティとリアリティ


N'da: 今度は機械論の先の話になるけれど、通常、真理とかそのなかでの真偽というのは形而上のことだから理性によって追求される観念論の話で、理性の界域は現実界を軽く飛び越えて考えうるかぎりのすべてに及ぶから、そこでの真は現実には確認できないことだらけになる。端的には数学の世界で語られることはそれでしょう。


あかり: というと?


N'da: つまり、内角の和が二直角ではない三角形はない、というのがユークリッド幾何学では真なので、中学生はそれが証明できないと罰点が与えられてしまうけれど、わたしたちが現に生活している現実世界で認めあっているあらゆる三角形は楽器のトライアングルはもちろん、それこそ教科書上でまさに証明せよと示されている三角形の図形も含めて、どれひとつとして正確に測定したら内角の和はぴったり180度になんてならない。もっとも厳密にはその正確な測定すら現実には近似的な行為にならざるをえないから、その互いのアバウトのなかでフィクショナルに「正確に測るということ」がおこなわれるかぎりでそれを認め合っているわけだけど、そこのところを詰めていったら真理は確認できることの先にあるのだろう、といわざるをえないでしょう。


あかり: つまりプラグマティックには内角の和が二直角になる三角形は真ではないし、そのように定義される三角形も存在しない、、、


N'da: いやいや、それは正反対です。その解釈はあくまで理性のかぎりでその純粋な目をもって現実をみるとすれば「あなたがそれと定義するような三角形はこの俗世では手にできない」というまでのことです。

 わたしたちが暮らす俗世に見いだせるさまざまな三角形は内角の和が二直角になるものなどまずなく、第一その正確さを気にして使うのは測量や設計においてあくまで算定上使うくらいだと難癖をつけざるを得なくなるということです。そのうえでそうした限界だらけ、つまりカントのことばでいえば純粋理性の批判のなかにある現実のことだけれど、理性で捉えられる数学のその真を認めたうえで、現実に知覚したり描いたり、作ったり、つまり一言でいえば構想することですね。そうしてできる諸々の三角形はその理に忠実に従わずとも三角形としましょうというフィクションとしてのあり方のほうがプラグマティックな真であり、それが「真理」よりも「真実」と呼ぶべきところということになる。


りん: すると日頃は真理と真実ということばをほとんど違いなく使っていると思いますが、真理は純粋な理性における判断上の真、真実のほうは実の姿がわかるからプラグマティックな真ということになりそうですね。


N'da: おお、いいところを衝いてきたね。それは分けること、つまりわかることが大好きな知性が悦ぶ真に対するひとつの見方じゃないかな。そうみることができると真理と真実ということばの使い分けに指針ができますね。


りん: わたしはしばしば親から「おまえはいつも理屈ばかりで…」と叱られ、実際は腑に落ちないことが多いのですが、いまのような真理と真実の分けかたに注意してみるとよいのかもしれない、といま思いました。


N'da: その先もいわれているのではないですか。「いつも理屈ばかりで、実行が伴わない」という具合に、、。だとすれば、それは理性が先に立って真理の追求に勤しむけれども真実を追うことをしないから実行に至れないということになりますね。


あかり: わたしもいまのことで思いついたことがあります。これまでのこの対話のシリーズのなかで、現実的ということばについてリアリティとアクチュアリティということばの違いが話題になりましたが、いまの理性がとらえる「真理」というのは認識論としての現実性、つまり知覚を超えた先の思考のなかでの「リアリティ」はある。それに対して「真実」というのは行為論としての現実性、つまりありありと知覚ができる世界でそれに対応した行為もできる「アクチュアリティ」のことと整理できたのですが、、。


N'da: いやまったくごもっとも!道理ということばがあるけれど、これまでの話の流れがひとつの道でつながって、びしっと筋が通った感じがします。こういうのを心理学でAha!反応とかAha!体験というようだけど、ちょうど今あかりさんが「思いついた」といったとおり、その着想は痛快ですね。この感じをもって今日はお開き、としたいくらいです。だけれど、いまは話がプラグマティズムというすこ16し脇道に入ってのことだったから、少なくともつぎにつなげるために軌道修正をしてから終えたいと思います。

 ただ、行きかがり上のこととはいえ、プラグマティックな真実性という行為論におけるアクチュアルな真偽というのは、この対話のそもそもの起点となった構想論と深くかかわりのあることなので、その点はあえて強調しておきたく思います。


どう見ても円にしか見えない三角形


りん: はい、そこにかかわるかどうかはわかりませんが、いまの話についてわからない点が出てきたので確かめておきたいのですが、たとえば、ある芸術家がおよそ三角形にはみえない造形、たとえばどう見ても円にしか見えないかたちを描いてそれに三角形というタイトルをつけて展示したとすると、それはプラグマティックな真実として三角形の図ということになりますか。


N'da: だいじなところですね。「わしが三角形というのだから三角形だ」といったことにもつながるわけですが、これ、あかりさんはどう思う。


あかり: うぁ、すごく現代社会にもよくみられる政治的な状況を思わせるところですね。あきらかな偽でも真だと言い張れば真実になる、ということでしょうか。現実の世界で起きていることから判断すれば、まさにアクチュアリティがある。つまりそれがプラグマティックな真のようにも思えてきます。


N'da: さらにどうしてそれが三角形なんですか?と問われたその芸術家は「だってみなさんもその角が丸いおにぎりを三角おにぎりといっているでしょ。ぼくはそれに倣ってさらに一歩進めてむしろその丸みを丁寧に描いたまでだ」といったら、りんさん、どうです。


りん: うん、そうかな。という気にもなってきますが、なんかそれこそ腑に落ちないところがあります。


N'da: その合点がいかないのはどのあたり?


りん: 全体のかたちが円になってしまっている現実があって、そのことを誰もが知覚できるなかで、それを描いた本人が三角形なんだ、と言い張るならそうなのかな、としてしまったら、実際の真そのものが揺らいで消えてしまう気がします。それがプラグマティックな真実ということになりますか。


N'da: いや、それはどうみても円だ。三角形ではない。それを三角形とすることは真実に対する冒涜だ、などとして認めないとすれば、それがまさにプラグマティックな真実ということですね。それは作家の主張ではなく、作品の現実のありように対する見る人たちの認識にもとづいた判断行為で、わたしたちにとっての真実をかたちづくるという意味で正当性があり、その実に沿っているという点で実際的であり、プラグマティックな真実性がある。つまりそこにある真実は三角形と名づけられた円のかたちをした作品があるということですね。それと同時にそれを三角形と名付けた作家がいて、彼は名付け親だけにそれを三角形と呼んで譲らないという真実も確かにある。

 同様に、さきほどあかりさんが政治的状況においてたぶん米国の大統領にみられるような黒を白だと言い張ることで白にしてしまうといわれるようないわゆるポスト・トゥルースのことを指していると直感したと思いますが、彼は言い出したら聞かない、しかたないからそういうことにしましょう、としてしまったらそのプラグマティックな真実だけが残る。円が三角形であることを真実にしてしまうことになる。つまり真実は偽を真と主張することで成立するわけではなく、あくまでそうだと認めることによって成立する。だから、主張した当人は「ええ、ほんとにいいの?」と実は腹の中ではびっくりしているかもしれない。そしてみんながいいというなら、そうするか、なんて納得するというか、せざるをえなくなるということもありうる。

 だから、プラグマティックな真実は彼が作ったというよりも、イニシアティブをとった彼に追従して実際はそれと認めあったわたしたちが作っている。そうなるとプラグマティクにあとには引けない真実がそこにあるという点を見逃すことができません。丸を描いて三角形です、と出してきたもの、その意表に対してうかつに「いいね」なんてするとそのことによって真実化する。翁はこれを不用意な民たちが主(ぬし)たることで成立するおぞましき真実形成といいたいところです。


あかり: またまた横道に入って行きそうな「不用意な民たちが主(ぬし)たる」といったことが出てきてその真意が知りたくなりますが・・・。


N'da: ですね。つい話の流れで出てしまいましたが、これについてはまた大事なところなので話がどんどんちがう方向にいきそうですから、いまは後のための布石ということに留め置きましょう。

 ともかくここでは真理と真実をピタリとは重ならないものとみていて、つぎの図でいえば左ではなく右のような関係でとらえました。プラグマティクな真実は現実にとらえる真だから、個別現実のありようにはかかわらず普遍性をもってあるはずの真理とは、ずれることがいまみたように当然あるわけです。そして誰もが知るように、



わたしたちの生活は普遍を語りうる理想の枠内で営まれているのではなく、無数の人為が織りなす個別具体から成り立つまったくの現実のなかで営まれている。ですから、そこでの真なるものごとは真実に寄り添い、それに依って判断され決定されている。


りん: そうすると真と偽の関係も確認したいところです。それはこの集合関係で2つの円の内側と外側の関係としてみればよいですね。


真実と偽


N'da: 真偽の話は哲学では真偽論としてまた古代から現代につづく論争の的になってきたことで、それこそ真偽の決着がいまだついていないことです。ということはこれはもともと決着のつかない問いなのかもしれない。だけどそれをよいことに、ここではここの見方を示しておきたいと思います。すでに繰り返し触れているように、この対話で語っていることはすべて同様ですけどね。

 で、ここではつぎの図に示したようにみています。第一に、その前に示した真理と真実の集合関係でも、そのとくに境目は、より適切にいえば、細胞膜のごとしであり、その境界は無数の穴が空いた点線で描いています。これは真理も真実も基本的に外部に開かれている状態をあらわしています。しかもその穴は細胞と同様、状況に応じて軽やかに開閉する動態としてある。また、真実の膜については波状に示していますが、これは幕の動態性がいっそう顕著であることをイメージさせようとした表現です。

 それで真偽の偽ですが、これをこの図で領域的に示すなら、とりあえずその濃いところは真実に浸潤しながらの外側になります。ここで偽は真偽の相対性でいえば真の正しさという意味からすれば誤り、間違い、まさに偽りとして同定されます。ただしその最大の特徴をいうなら、この漢字の「偽」がそのまま表意しているとおりです。すなわち、人が為すこと、これがこの概念の、ど真ん中を意味しているということです。



 こういっては身も蓋もないかもしれないけれど、およそ人が為すことの基軸は偽りであり、そこをただすことによって真実がつくり出される。あるいは偽り同士の補い合いによって真実になるといった具合にみます。ここでいう「ただす」は正すというよりも、陽明学が格物致知にみたような「格(ただす)」であって、少なからず意思が入り込んだまさに作為がその基本に含まれている。人が為すこと自然そのままに放っておけば基本は偽であって、それを意図的に格(ただす)こと、つまり真なる木枠にあてて整形することで実にしていく、それによって真実というかたちにしているというわけです。しかもその真なる枠組みも自然にあったものでも神からの授かりものでもなく、もとはといえば人が為したもの、というわけです。


人が為すことの基本は偽


あかり: すると真実の根底は偽という見立てになると思いますが、その人間を見る立場は性悪説ということですか。


N'da: そう最初のところ、真実の根底は偽であるという点はそのとおりですが、後者は違いますね。ここは誤解してほしくないところですが、偽という概念をその文字のつくりそのままに人為ととらえ、まさに人が為すことは偽であることを基本とみる。言い換えれば、人間が為すことは間違いや誤りから始まるということを起点にして基点であると確認している。だって何事も初めから真正を為せる存在ならそれは神でしょうし、人は何も学ぶ必要などなくなってしまうでしょう。

 たとえわたしたちの大多数が正しいと認識したり判断していることにしても、その大方は偽である可能性を宿していることがむしろふつうですから、それは偽に偽を重ねてきたなかで編み出されてきた途上であることがほとんどで、それゆえに暫定的な真なり正しさということになります。

 ただし、こうした未完成の正しさ、人間知、あるいは在り方、生き方を善とみるか悪とみるかは、またまったく別の次元での判断でしょう。だからここは人間についての性悪説を語っているわけでも、その側に立った観点ということでもありません。


あかり: そうですね。つい、学校的な観点で物事を良し悪しで判断してしまう習慣から抜け切れていないところがあります。むしろ偽即悪という見方を崩すということですね。


N'da: そういうことです。真実の話をノン・フィクションというけれども、それは作りごと、フィクションの否定形になっていますね。つまりフィクションありきのノン・フィクション、どちらがベースになっているか。そのありようですね。フィクションとはよく虚構と言い換えられるけれども、すぐあとで説明するように少なくともここでの見方では、虚は偽とは大きく性質が異なるとみています。だからフィクションは虚構というよりも端的に人が為すことの基本であり、つまり偽(いつわ)りごとです。このいい方にはだいぶ抵抗があるかもしれないけれど、再度、強調すれば、偽りは人の為すことの自然なあり方であって、そこにさらに人為、ここでいう偽りに偽りを重ねながら整序され、真実ができあがったり、真実になしていく。それを真実ということの真実の姿であるとみています。


あかり: あれっ、するといま翁が語っているその真実の物言いは偽り?


N'da: そのとおり、わたしたちは人であるからね。こうして人為を重ねあうことで真実らしさを編み出し、真実に近づいていく。ただそれは接近だから、大方は真実らしさですね。


りん: その偽りに偽りを重ねながら整序するということが人為に人為を尽くしてと、と言い換えられることがみえましたが、それをまた言い換えれば、努力を重ねて、ということにもなりますか。


N'da: ひとつにはそうしたことがある。でももうひとつには同じ偽りごとでもほとんど皆がそれを実とみなした結果としての真実もあるし、同じ偽が何度も繰り返されることで真実化する、真実になるということもあるでしょう。また、なにかとても大事な状況、とりわけ危機的な状況が発生したなかで、たまたま生じたことが真実化することもある。


あかり: 学校時代に生徒会で校則の問題がよく取り上げられました。学校の外でもそれこそ憲法やら法や条例など、いろいろな規則づくめでわたしたちの行動が統制されていますけれど、それらの規則はわたしたち自身がつくりあげているフィクション、犬や猫には通じないまさに人為的なことであって、その人為を一文字で「偽」というわけですね。すると偽りに偽りを重ねているのがわたしたちの現実の行為で、それが真実、あるいは真実らしさの姿だということもわかるような気がします。


りん: 偽りに偽りを重ねるという語りはショッキングな表現ですけど、その文字を分けて人為に人為を重ねてといえば、一所懸命に努力してという姿も描けるということで納得できそうです。でも、すると真実の世界というのはまったくの人間世界の話ですね。


N'da: 確か前回の対話で種に特有な環界の話をしました。人間は他のたくさんの生物たちと同じ時空間を共有して生きているので、まるでひとつの世界のなかで同じものごとを同様に見聞きして生息しているように思ってしまうけれども、実際そこにいる生物種はそれぞれに固有の感覚・判断・運動が及ぶかぎりでの特有の世界、環界のなかで生きているわけです。「真実」という人がたいせつに思っていることも、まったくもって人だけが為す人間に特有な世界での真です。でもそうであっても、というか、むしろそれだからこそ今日ここですこし前に話したように、プラグマティックな観点では、わたしたち人間が青筋あげて熱り立ち、問いただすようなおおごとが真実をめぐる話になっています。


あかり: するとわたしたち人間だけに限らず、他の動物全体も含めて普遍的に語れるような真(まこと)のこととなると、それが図の左側の真理ということになりますか。


真理と虚、虚という可能性


N'da: これがまたどうかわからないけれども、おそらくそういうことだろうといえそうなところがあるということですね。生物も個々の身体の物質レベルでの物理、化学的な反応の話になれば、その真理を普遍性をもって語ることができるから、まさに理学部で生化学や生体物理学が追うようなところはこの領域に当たるけれども、それも人間の世界のなかで語っているかぎりのことだから限界はあります。その限りのなかでの真理の追求ですね。典型的には数学や形而上哲学での抽象世界における真を理性をもって追い求める世界です。


りん: 図ではその境界の外に虚が置かれています。真実と偽の関係からすると、この真理の領域の外側が虚という関係ですか。そこは真理から外れるから、ふつうは正しくない、誤り、間違いにあたるところなのでしょうけれど、それを偽とはいわない何かが虚にあると、、、。


N'da: そう、偽とはちがう虚であるわけで、なによりもまず偽とはちがうということは、ここは人が為しうることとは別だということをいっています。それだけに人にとってはどうしようもない虚しさが語られてもいる。

 「むなしい」というときは漢字で「空しい」とも書きますね。ふたつ並べてその態をあらわせば「空虚」です。ここが空虚なのは人に接近不可能な未知性、知り得ない領域であることも語られています。

 ただし、虚(うつろ)であることは『老子』でも容れ物や車輪の軸穴の比喩で語られているように、そこに入る可能性がある場所をあらわしている。虚はそれゆえにこそだいじな場所であることがあらわされている。しかも真理と通じ合うところに一番濃くあることは、そこに当てはまるものが入ることで真理となる場所であるともいえそうです。見方によっては入ってしまって真理となったらもう仕舞いで、まだ入っていないからこそ価値がある。空席だからこそ価値がある。満席ならもうそこは場所にして場所ではない。そういったデュナミス、受容性と可能性を語りうる場所として虚がそこにあります。だから、そこにはいわゆる間違いが入り込む可能性も自然にあるけれども、少なくとも虚イコール間違いとか誤りということではまったくない。

 いまは入っていなくても入れるようになっていること自体の重要性や、さらにだいじなこととしてもう入っているのだけれども、わたしたちが及び知れる限界ゆえに捉えきれていないものごとが入っていることも暗示させるところだともいえます。真理はそのものずばり、わたしたちの理性によって捉えることができる真だけれども、虚はその理性の限界を超えたまこと(真)も想定させるところというわけです。そこはわたしたちにとっての虚でしかないということですね。だから虚しさが伴うのですね。

 わたしたちの理知の限界をどのように捉えるかにもよるけれど、その見積もり次第では人間程度の者にとっての真理の領域の広さというものは虚の領域に比べるとちっぽけなものかもしれません。


あかり: そこは真理と虚の境界も点線であって両者が入り混じっている部分のありようのことだと思いますが、その揺れ動く境がどの程度のもので、どういうところなのかは心惹かれますね。そういう場所として、とくにこの図では虚実皮膜として波のような印とともに表現されていますね。


虚実皮膜、偽による真実から虚を穿つ真理へ


N'da: 学問でもビュア・サイエンスなどと呼ばれる実利とはかかわらない分野が追求する真理についてはその場所としての虚が大きな狙いどころでしょう。でもおそらく心を虚しくして取り組むことになるだろうから、成果主義のような観点が立ち入らない場所や克己の心構えが求められるでしょうね。


りん: 同じくピュア・アートがあるとして、それが追求するところも同じになりますか。


N'da: そうでしょうね。ピュアということを想定すれば、他方で藝術も商業性を排除せず、むしろそこと能動的に向き合うなかでの真を追求することも学問と同様にあるわけです。虚実皮膜は浄瑠璃を中心に藝論を述べた近松門左衛門が語った概念として同時代の儒学者が伝えたことばですが、その商業性を踏まえればこそ、近松が人の慰みになるよう藝において真実を描くには、実際にあるがまま忠実に描こうとすれば興醒めになるだけだと、似せるにしても誇張するところ、省くところ、大まかであるところ、つまりは相応の人為あってこそ真実に肉薄できると語ったわけです。

 それをこの図ではあえて真理と真実が重なり合って、かつ虚偽も混淆する場におきました。たとえば、真実の愛をテーマにした藝があったとすれば、その真実が偽、真らしきことによって描かれてあろうことと、もとより愛という形而上学的な観念においてはその真実は真理と重なり合うであろうことからすれば、それが描かれる場は虚無と無縁では済まされないといったことになるでしょうか。これはむろん愛のみならず美にしても善にしてもその表現において同様に語れるところだと思います。


りん: 虚としての場所が待ち構えているそのものが入らないでいるうちは真理がみつかっていないということでしょうから、だからこそそこに真実味がある。その味覚を求めて藝を表現するということですかね。とてもおいしそうな真実味がします。(大笑い)


N'da: きょうは脱構築のありようについての確認から、その有機性という特性に触れたところでそれと対照的な機械論についてすこし深入りしました。メカニズムという思考規範に絡め取られた現代の人びとの認識と行為、価値観について考えていきました。そのなかでおのずと、わたしたちはどう生きるか、という問いかけのようなことが出てきて、プラグマティックに真実を追い、アクチュアルに生きる姿が語られ、そこから真のありかたや真偽論の話にいたり、ここでの見方を考えることになりました。

 そのたどり着いた真理と真実、偽と虚といった関係についてもデジタル的にきちっと切り分けられたあり方ではなく、それらの境界については内外通態かつ動的に変化しつづけている有機的なありようを強調しました。そのことをあらわすために最後に示した図には「真の絶対性と相対性を同時に認める:相対主義の形式論理的な不整合を超える脱構築」というタイトル・キャプションをつけました。この題目がどういうことをいおうとしたかは、きょうの話も踏まえてそれぞれに考えてみてください。

 有機性の観点は機械論的思考に染まった現代人にとって救いの手となるものなので、今回は染まりきった身のほうを先に確認したから、次回は有機性の観点を再度おさえてその先に進みたいと思います。きょうはありがとうございました。


りん、あかり: こちらこそ、ありがとうございました。



次回(5)につづく



著者プロフィール

N'daHaSatomohi(ンダ・ハ・サトモヒ)

 太平洋戦争敗戦から十数年が経ったころ、この世に生を享けた。その経緯から、自分の少なくとも魂はどうも南方戦線あたりで死にきれずに彷徨った学徒の英霊がやっと故国にたどり着き転生したのではないかという思いを胸の内に潜ませてきた。でありながら高度経済成長の時代に少年期を過ごしバブルに興じて甘すぎる人生を歩んできてしまったことへの自戒がある。人生晩期に至り、いったい自分はなにを学びえたのか、同時にその黒板を背にしてなにを伝えられえたのか、と、より深い自省の念にかられ、これからの人たちのためのこの国について、人類としてもつあの原アフリカへの憧憬とそこからのパワーを借りた化身となって、ここにその構想を語り始めているものなり。


なお、ここでいう原アフリカとは、人類の起源はアフリカにあり、そこから20萬年にわたる遺伝変異と移動のグレートジャーニーを経て、いまの肌色をあたまに多種多様になったわたしたちがいるという定説を一応踏まえて、その多種多様さの必然的交錯としての偏見といさかいに呆れつつ、おい、もういい加減にせい、と叱る大本祖先ンダムとンヴのふたりが立っていた大地のことを指している。

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