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象徴国家論への旅 - 5

  • 執筆者の写真: Shinichi Saeki
    Shinichi Saeki
  • 11月13日
  • 読了時間: 49分

更新日:11月15日

Dugup?編集部が尊敬する、ペンネーム Nda Ha Satomohiさんからご寄稿いただいての「象徴国家論への旅 - 第五回」をお届けします。


真に迫る真面目なお話。相対主義に足が埋まらないように、今を生きる全人類にオススメしたい内容かと思います。是非ご覧ください!


第一回第二回第三回第四回がまだの方、是非ご覧ください!


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だいすけ: きょうはぼく、だいすけと、とうきくんがお相手です。どうぞよろしくお願いします。


N'da: はい、どうぞよろしく。


とうき: よろしくお願いします。はじめに前回のお相手になった、りんさんとあかりさんから、お題に出されていたことについて二人で検討してきたとのことですので、そこから口火を切ってもらいます。


N'da: 図につけていたタイトルの解釈をめぐってですね。よろしく。


真の絶対性と相対性を同時に認める


あかり: 最後に示された真理と真実、虚偽に関する図につけられていた「真の絶対性と相対性を同時に認める:相対主義の形式論理的な不整合を超える脱構築」というタイトルの解題です。

 前回までの復習にもちょうどよいので、りんと一緒に考えてみました。前半部分はわたしから話します。

 学問が追求することは「わからないことを問うこと、できれば知ること」だと思いますが、なかでもわからないことの究極は真(truth)であり、ものごとの真にたどりつくこと、それが学問の求めるところの典型かと思います。ただ、その到達点がこっちにもあり、あっちにもあり、となったらそのどっちがより真として適切なのか、という問いが生じるはずなので、想定している究極の真はひとつという前提があるのだと思います。

 その前提を踏まえると真には絶対的な性質がある。ところが、前回の図で示されたことは真といっても、たとえば真理と真実というあり方があり、わたしたちは普段、その違いを意識せず無造作にこれらのことばを使っていますが、真理と真実は重なることもあれば重ならないこともある、ということでした。

 ここで確認ですが、重ならない場合というのは、真理ではAだが真実ではBということもあるし、どちらか一方しかないというあり方もあるということでよいですね。


N'da: 真理ではAだが真実ではBという例は、前回も示したけど、どんな?


あかり: 内角の和は2直角という三角形の真理があのます。その一方で、わたしたちの身の回りにある三角形では、どれをとってもきっちりとはそれが成り立たないという真実がある。


N'da: するとわたしたちはどっちの真のもとで生きているのだ?


あかり: 真実のほうだと思いますが、その真実が成り立つ背景には真理があってそれが真実の世界を支えているのだと思います。だからたとえば中学校の数学のテストでは三角形の内角の和についてひとつの正解が定まる。でも、それを知らなくても忘れても三角形は描けるし三角おむすびもつくれる。だから直接には真実に生きている、、?


りん: そのふらつくあたりが真の相対性ということじゃなかった。


あかり: そうそう、そう解釈したんだ。


N'da: なるほど、真理世界は典型的には数学を学ぶことで触れることができ、それによってその世界を認識しつつ生きている。同時にそれとは別に三角形を見たり描いたりと認知し行為しながらその真実の世界にも生きているということですね。

 では真理しかなくて真実はない、あるいはその逆の例にはどんなことがありますか?


あかり: それはわたしの得意分野なんです。たとえば、真理の世界のことといえば虚数。わたしは真となると、つくづく真実の側に生きている人間なんだと思います。数学の勉強で虚数が登場したあたりからその真理の世界についていけず、追い出されたんです。いや逃げ出したかな。理詰めに追っていくことはわたしにとってまるで無理数で、基本的にはりんごがいくつ、みかんがいくつという実の世界でしか、ものごとを考えられない人間なんです。

 もう一方の真実しかなくて真理はない。ふふっ、まだわからないだけかもしれないけれど、真実の愛かな。


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りん: でました! そこが一番の得意分野ね。


N'da: 確かに。「真実の愛」は詩や映画のタイトルやフレーズとしても見かけるし違和感ないけれど、真理の愛とか愛の真理なんてなったら興醒めしますね。それほどに真実と真理は遠く離れうるし、他方が認め難いありかたとしてもある。かといってどちらも真であることにかわりはない。だから、それを表現した図のタイトルは、真の絶対性と相対性を同時に認めているということですね。


あかり: はい。そう納得しました。では、後半部分はりんに渡します。


相対主義の形式論理的な不整合とそれを超えるための

脱構築というアクロバット


りん: はい。「相対主義の形式論理的な不整合を超える脱構築」ですが、二人であれこれとやりとりして出した解釈です。

 まず相対主義そのものに形式論理的な不整合があるというのは、絶対普遍的な真を主張することを否定して、たとえば経験や立場や時代、文化の違いによってそれぞれの真があるとする相対主義の主張は、なるほどそれをそのとおり確かだとしてしまうと相対主義という名の絶対主義になるという矛盾に陥ることだと解しました。

 この矛盾を乗り越えるためには、多様な真を語る相対主義の主張を弱めてみずからに相対する絶対主義の主張を招き入れるという曲芸をすればよい。その曲芸である脱構築を演じ見せているのがこの図だという見方をとりました。いかがですか?


N'da: うまい比喩ですね。そのアクロバットの妙技は、たとえば英語ではtruthのもとに一元化している真を日本語では真理と真実に分けみるようなことを手掛かりに、あえてその相違を弁別することで真理が抱える絶対性と真実が宿す相対性を同時に支えもつという大技ですね。


りん: はい、それでそれってどんなかたちの技なのよ。と具体的にあれこれ考えてみたんですけど、そうしているうちに、これってなにかひとつの型に組み立てようとしていない? そもそもそこにもっていこうとすることを脱するんじゃなかった? この曲芸をまさに曲芸のまま、おさえるということではないか、と。


N'da: そう、真理の絶対性にさえ、虚との主客が通態したありようを前提にしてその有機的な、つまり動態としてのありようをとらえる。それによって絶対性をもったひとつへの構築への動きを揺さぶり崩そうというわけで、真実に至っては「人の為すことはすなわち偽」ということをもってその相対性に真実のありようをみるという軽業も繰り出すわけです。

 ここでだいじな点はそうした技をかけた結果はどうなるの、という当然の帰結を追うというありがちなところに思考をもっていくのではなくて、その技その自体がかかりつづけている状態を、あたかもきわめて微細に動くスローモーションでみているかのごとくそのまま延長してみるところに思考の焦点をおくという点です。すくなくとも考えるという行為がその技そのものとともにありつづけることになる。

 これは有機的なものの見方の基本ですが、この見方は常に動態として変化のただ中にあるという無常観のもとにあります。諸行は蜻蛉のように儚くとも、その「人の夢」のなかにこそ真があることをおさえるというわけです。


とうき: 実は僕は親が陽明学に強い関心をもっていたことから、僕の名を中江藤樹さんにあやかってつけたそうで、ただし、まんまではあんまりなので「とうじゅ」ではなく「とうき」と読むことにしたと聞いているんですが、そんなこともあって高校生くらいのときから結構、陽明学の本に親しんできました。

 前回の話のなかで、真実に対する観点が陽明学の格物致知的だといわれたこと、なるほどと思いました。で、今「英語ではtruthひとつで語られるところを日本語では真理と真実をもってとらえる」といわれたことで、あらためて思ったのですが、それはもしかすると儒学の伝統が影響していたのではないかと、つまり陽明学に対する朱子学では格物致知を物にいたる、つまり知ることを究理、真理に求めるとしていたんだと思いますが、この大きく二つの儒学の伝統があることから、日本では真を実と理でみるようになったのでは、と思ったりしました。この点、いかがでしょう。


N'da: おもしろいね。確かに朱子学は真理を致知とし、陽明学は真実を致知とみたといえそうです。ただそれも単に大陸からの受け売りことばではなく、日本的解釈だろうと思います。真理も真実も中国語ではなく日本語として生息しているわけだから、構想ということばと同様、まさに日本知の所産としてみてよいはずです。

 ともかく陽明学の知行合一も行為論にかかわる真を語っているから真実一路ですね。

 実際に儒学の影響が真理と真実という表現に反映したかどうかは、ここではなんともいえませんが、真理や真実ということばを文献で丹念に追えば、もしかするとそうした結びつきの根拠がみつかるかもしれません。これを機会に、とうき君、調べてみてはいかが? 卒論のテーマにも十分なりうるように思う。

 それはともかく、くれぐれもここではあれかこれか、という話ではなく、あれもこれもというポストモダン的な立場でみていることは忘れないでほしいところです。


りん: 曲芸的な見方をおもしろくみていただいたなかで、ふと思ったのですが、英語ではtruth一語のもとで真理も真実も語るから、おそらく直訳としては「真」がふさわしいとして、英語の文化圏ではそのtruthをここでいうようなかたちで二つの見方をしてこなかったのか、といえばそんなことはないですよね。


西欧における真理と真実


N'da: そうそのとおり。少なくとも近代啓蒙期以降の西欧でデカルトやスピノザ、ライプニッツなど、いずれも真、ラテン語でいえばveritasになるけれども、それをここでいう真理にあたるものと真実にあたるものを見分ける見方は提起されていました。そこではキリスト教文化圏においてどうしても神との関係を解決しなければならなかったから、論者によってそれぞれに微妙に観点が違ったけれども、そうした違いにも注意しながら各自、比較してみてください。

 一例だけあげておけば、たとえばライプニッツでいえば「永遠不変の真」つまりここでいう真理と、「事実の偶然にもかかわる真」つまりここでいう真実とを分けてみている。ただ、ラテン語にせよ英仏語にせよ、表音文字という制約から漢字のようにそれらを単語として造語するのは苦手な言語だから、今いったようにちょっとぎこちなくフレーズとして表記・表現の仕方を変えることになります。 いずれにしてもその区別のなかでは永劫の真、つまり真理となる基準は矛盾のあるなしであって、まさに形式論理の世界になるから矛盾があると真にはなりえない。丸い三角形は端から受け入れられない。他方、事実の真では矛盾が許容されて、そこでの真実の判定基準は根拠となりうる相応な理由があることにおかれます。つまり充足理由律です。エビデンス・ベースの確からしさが真実の判断を決めるので角が丸い三角おむすびがある以上、その三角形は認められる。


あかり: 充足理由律、いいですよね。こんなの食べたら絶対だめ、矛盾してるでしょ、と思うけど、山盛りパフェを目の前にしたら、つい手がでてしまう。充足理由があるものね。


だいすけ:それ充足理由の履き違えだから!


りん: それは日頃の節制のために、あかりが生物学的に糖分飢餓状態にあるから眼前の存在に確かな充足理由を見出しているわけよ。わたしは真実が真理を上回る実情を察するけどなあ。


だいすけ: でもさ、人はパンのみに生くるにあらず、ですよね。翁。


N'da: やはりここでもあれかこれかのシーソーゲームに走ってないだろうか。充足理由に満たされて甘い誘惑に乗って楽しみ、それでチャージした高血糖を中枢神経系のいつにない活動で存分に燃やすべく真理探求に励むということであれば、懸念される糖分の脂肪細胞行きは防げるのでは?


あかり: ですよね。それを聞いて安心したところで、わたしたちはフロアに戻って聞き手に回ります。


真理の意味と価値


だいすけ: ところで先に進まれる前に、関連してひとつ気がかりになっていたことがあるので、確認させてください。

 ユークリッド幾何学の世界で内角の和が180度の三角形は真理だけれども、現実に生活している場でそうした三角形をみつけようとしても厳密なそれはどこにもない。ところで現実に存在しないものを俺らは幻というわけですが、すると真理の探求というのは夢幻を追い求めることになるわけでしょうか?

 俺らはこの大学生活のなかでやがて「お前、いつまでも夢まぼろしばっか追ってんじゃねえ」といったことにもなると聞きます。現実に生きる俺らにとって、いったい真理ということの価値や重みはどのあたりに置けるものですか?


N'da: だいじな問いかけですね。「あれもこれも」といったけど、「あれも」はわかるが「これも」は「あれ」と同じだけの重みをもつのか、もつだけの価値があるのか、両方を曲芸的にでも携える意味はどこにあるのか、という問いですね。とうき君も同じように思うかい?


とうき: 僕は先ほどもいいましたが、陽明学寄りの考え方に親しんできたので、その立場からどうしてもそれに相対する朱子学的な究理はそれへの没頭となると、だいすけのいうように幻、あるいは幻をみつめるわたしを見るようなことになり、そうした悟りのようなことが目的でないとすれば、やはり真理を求めることの意義は真実に比べてどれほどのことなのか、実践上、実用上はっきりとつかめないというのが正直なところです。


N'da: そうですか。王陽明が若い時分に朱子学の格物究理の大事さを教えられ、草木一本にも理があるといわれて、竹を前にその理を追求しようと努めた。でもなかなか達せず、ついに七日目には具合が悪くなってしまい究理ということに疑いをもつに至ったという話がありましたね。きっとそれがよぎったというところでしょうか。


とうき: はい、いわれて思い出しました。


N'da: するとやはりとてもよい疑問を呈してくれたことがわかります。いまあげた竹の例でいえば、そのときの陽明は竹の理というものが「ある」、つまりその「存在」を見出そうと努めてしまったのだと思います。だからいくら経っても見つけられず、疲れ果てたというところではないでしょうか。それは内角の和がきっちり180度になる三角形の存在を探し求めて、一体どこにあるんだ、と疲労困憊するようなものです。

 「真実」のほうは、それを実証的に確かめるということはその追求ではだいじな作業であり、存在の有無を語りうる。ただそれとても確からしさの程度において語れるわけです。真実の真は「真らしきこと」を含めて語れるからですね。先ほどいったように人が為すことの実の世界はことばどおりの偽りを前提にしていますしね。

 それに対して「真理」のほうははじめから「あるなし」の話ではない。reason、理の世界の真とは存在うんぬんではない。真理の真はそうであらざるをえないことです。三角形とは3つの線分の各端点同士がそれぞれ接合してできた図形だから、その内角の和は180度「でなければならない」のであって、実際にそれが存在しているかどうかという問いにはならない。おのずからそうなる、ということです。そのとおりのものが見つからないということは、見つけようすること自体に錯誤がある。

 ご承知のことと思いますが、西田幾多郎の著作には西田語ともいわれる「でなければならぬ」という表現がいっぱい出てきます。これは真実世界に寄り添って生きている日常語の世界からすると、ずいぶんと傲慢で断定的な物言いに思えてしまうけれども、すくなくとも真理について向き合おうとすると、そこは「でなければならぬ」世界なので自然にそういわねばならなくなるところがあるのですね。

 だから、この現実世界のどこを探しても、真理としていわれるところの三角形はみつからないからそれは幻だというのは真実世界からみればそうだけど、その幻という存在していないのに存在しているかにみえるということ自体は、その立ち位置からの一方的な話になっていることに気づく必要があります。

 幻は虚像ともいえるけれど、真理はいわば虚が充満したなかに成り立つわけで、先の図ではそれを表現しようとしています。真理は三角形の例のように「かたち」についても語られるけれども、そのかたちは三木清が構想論でしばしば語る「かたちなきかたち」で、それはまさに真理における虚像としてのありようです。だから、その「かたちなきかたち」はどこにあるんだという問いかけは真理世界では無理強いなんです。

 では、そうした虚像と相い照らされるような三角形の真理に一体、どのような価値や意義があるのだといえば、あらためてどうでしょう。この内角の和が二直角になるという三角形の特性がもつ真理の価値はどのようにみえてきますか?


だいすけ: 俺は今、中学生の家庭教師をしていますが、図形の証明問題で中学生の数学でも結構、難問があるんですが、それを生徒と競争するように解く場面がよくあって、当然、こっちが先んじて解くべく頑張るわけですが、これがスパッとできたときの何ともいえない爽快感。別になにかを手に入れたというわけでもないのに、大袈裟にいえばなんか一瞬、まさに真理をつかんだといった感じですかね。とても価値ある瞬間に達したと思える気がします。


N'da: そう、それは一片の真理に触れてその光を受けた瞬間ともいえそうですね。そういうことになれば学校での営みは真理の光に満ち満ちていることになるから、実社会のなかの聖域としてそこは神々しくもみえてきそうです。

 するとその実社会の真ん中にあって生活世界に一体、真理の価値や意味はいかにありや、と問うとすると、あえて三角形にこだわれば虚としての三角形の真理があればこそ実世界で三角と認識されるさまざまな実像の存在が成り立っているのだということが見えてきませんか。つまり教科書や黒板に描かれる三角形、トライアングルと呼ばれる楽器、三角おむすび、いずれも虚像の真理は当然、虚だけに満たしようないけれど、その虚像を塗り絵の下書き線のようにしながら似像として実線が描かれたり、かたちづくられている。かたちなきかたちゆえのかたちの成立です。

 つまり真実の世界が偽にまみれながらおよそ「真」ということばをつけて成り立ちうるのは、それが真理という積極的な意味での虚像の背景なり基盤をもつがゆえだということです。


とうき: なるほど。前回からの対話でもありましたが、「人が為すことはそのまま偽りである」というのは面白く感じると同時に、言葉遊びもあって詭弁のように感じられて正直、引っ掛かりがありました。でも、いますごく納得できた気がします。

 つまり人が為すことはそのことばのとおり偽りになることがほとんどだけれども、そこに真実性や真実味がもたらされるとすれば、翁はたとえば前回、反復のなかに、ということをおっしゃっていましたが、もうひとつには他方に虚としての真理がもてるなら、その虚像を土台に偽から実が、実から真実が引き出されるのではないか、と思えたんです。虚実皮膜という近松の藝における真実性というのも虚あっての実の表現で、その真理と真実の微妙な関係性を皮膜と語っているのではないか、と思えました。


N'da: それはすばらしい着眼だね。そうなると真理の虚性に、その虚像ぶりに一体どんな価値や意味があるんだといった疑問は氷解したのでは?


だいすけ: とうきのいうことを聞いていて、幾何の証明が解けて快感、といった話よりずっとダイナミックな話なのかも、と思いました。すぐには氷解したとは思えないですが、ほとんど曖昧に真理とか真実ということばを使ってきたいろいろなことについて、あらためてしっかり見直していきたいと思っています。


とうき: 自分もまた朱子学も振り返りつつ、陽明学との総合なんかを探れないものかと思いました。


N'da: そうですね。その総合という営みも、そこでいわゆる弁証法のように正反合という具合に止揚するかたちでひとつに統合するようなことを求めるのではなく、たとえ両者を相携えようとすれば矛盾が生じるとしてもそのまま共存させて保つようなことを志向してみてほしい。それは全体の構造としては当然不安定だからとても成り立ちがたく思えるし耐えがたくもあるけれども、それはおそらく可視的にはそうみえるのですね。無機的な材料による構造力学的な設計上の困難さや見た目の美観や均衡といった具象性はここでは不問に付すべきことです。

 これもまた機械主義への囚われからの脱出ということにもなりますが、もとより有機体がなす有機的な思索の営みにおける挙動原理は非平衡の開放系にあるから、とりわけかたちは無常の動態が基本で、ひとつにまとまりをつけた形態や構造を前提にする必要はないですね。そういう点ではここのところでずっと案内役になってきた「真の絶対性と相対性を同時に認める:相対主義の形式論理的な不整合を超える脱構築」の図はこのかたちをゆめゆめこの見たとおりの固定したかたちでは捉えないようにし、その全域で破壊と生成が同時進行している動きをイメージするよう留意してほしいのです。


とうき: 希望的観測として、なんでも動画で見て知ろうとする習慣がついてしまった自分たちの世代にとっては、そういうイメージの捉え方は意外と得意かもしれません。


真理と真実の真相に向けて


あかり(フロアから): フロアから失礼します。いま思ったのですが、その真理と真実をあらわす図の全体のタイトルはとても長いですが、それを「真相」というひとつのことばで言い表すのはどうでしょう。


N'da: ああ、それはすばらしいアイデア。ひとつ懸念があるとすれば、真相ということばの一般的な使われ方は「ある事件の真相」とか「一般に語られている事実の真相」といった具合に、真実寄りの文脈で語られがちなことですね。

 でもそれを抜きにしてすばらしい着想だと思ったのは「真相」の「相」という文字が「木」つまり対象を向かって「目」を向けている状態を会意しているとみることができるので、まさにここでは「真」と対峙して真理と真実の全体そのままを捉えようとしている状態を語るものとしてうってつけの文字だと思えたからです。

 ことにこれが「想」であった場合に相照らしてみると、幸か不幸か「真想」という単語はないですが、その構想にも使われている「想」は「相」から一歩進んで対象に対峙したうえで心に入り、そこで思い描いたことになるわけです。するとこれは当然、個々人のもつ記憶などの認知作用が働くことでさまざまな作為が入り込んでしまうことになる。わかりやすくする、まとめるといった綜合化もなされることになる。こうしたいわゆる知解作用は営みとして一般には肯定的に捉えられますが、ここではむしろそういう手当てをなす以前の「相」として対象に向き合った状態のまま、いわゆる純粋経験として全体観することに力点がおかれることになります。

 そういう点で「真相」ということばは、ここでとてもうってつけのことばだと思うのですが、反面、最初にいった普段の語用にすこし難を感じる残念さがあります。


あかり(フロアから): なるほど、ほんの思いつきでしたが、また考えてみます。


N'da: いや、でも、僕らはどうあれこの真理と真実の双方の真に向き合う現実に生きているのだから、これが真相に他ならないといえるわけでこのグッド・アイデアはいただきです。


あかり(フロアから): ありがとうございます。


生死との向き合い


だいすけ: ところで、先ほど哲学者の三木清の名まえが出ましたが、この対話で構想力について考えていくのに三木清の著作について学ぶ必要があると思い、手軽なところから入ろうと思って三木の『人生論ノート』という文庫の名前に惹かれて買って読み始めたのですが、これがとても手軽とはいえず、戸惑っているところです。

 それの始めの方にあった幸福論のところで、生死を比較して、死は一般的なもので観念である。だから死に出会うと人は孤独だ。それに対して生は人それぞれ個別に特殊だから想像になり、三木にいわせれば構想かな、だから生には夢があり楽しめる。といったことが書いてありました。これ、何をいいたいのかよくわからなかったのですが、この生死の対比については妙に気になっていました。それでここにメモっていたんですが、今日の話を聞いて、ああなるほど、と合点した気がしました。


N'da: 生も死も真そのものだけど、その特殊と一般、想像と観念はここでみた真実と真理のことを指していて、そのありようで捉えると、語られていた内容が立体的に浮き上がったということかな。


だいすけ: はい。とくに死そのものはどのような生を送るにしても誰にでも共通のことで、普遍に、結果として生命の停止というかたちでやってくる。でもだからそれは孤独だという解釈はどういうことなのか、はかりかねていました。ところが、さっきのとうき君の竹の理を追求して病に至ったという話ではないけれど、真理というものは人それぞれに多様なあり方を許さないだけにある意味、透徹で孤独につうじるな、と腑に落ちた感じがします。


とうき: 陽明が孤独に耐えきれず病気になったというわけではないと思うけど、確かにそれが例え話だとしても、一週間で真理探求を諦めたというのはいささか早すぎる気もします。それはともかく、人によりさまざまな生の方は、その偽りの空想と真実の構想が織りなすなかでいろいろ夢をみて、それを現実化するといった各人に特殊な楽しみが広がっているというわけか。

 でもね。いま突然聞いたから十分飲み込めていないけど、死は一般普遍的なものだから孤独だという解釈が今日の話で腑に落ちたというけど、それがどうしてなのか、いまひとつわからない。誰にも例外なくやってくる死を、真理として受け止められるとして、で、どうして孤独だと納得できるんだ?


だいすけ: ああ、俺が妙に合点したというのは、死にかたは人それぞれで多様な真実としてあるから物語としてもいろいろになるけど、死そのものは生命の終わりとしてそれこそ人さまざまどころか、イヌにもプランクトンにも一般、普遍で、たったひとつの真理としてある。これこそなかなかめぐりあえない絶対的な真理じゃないか、しかもその瞬間に「これこそ死という真理なんだね」なんて他の人と共有しあうことができず、誰もがその最期に、その真理にたった独りで向き合うことになる。これって他に選択の余地がない究極の孤独な情況ってことじゃないか。そういう納得だよ。

 それとね。真理と深くつながっているという虚もね。何かそこでクルッと反転して絶対的な虚無に落ちる死といった感じがして、それで腑にも落ちたということだよ。


とうき: うぅーん、そうか、、、。


他の仕方でもありえることとありえないこと


しょうた(フロアから): フロアから失礼します。ちょっと今のことと関連しそうなので、、、演習の授業でアリストテレスを学んだとき、僕らが「知る」ということの分類をしていておもしろいな、と思いました。なかでも知る対象について「他の仕方でもありうること」と「他の仕方ではありえないこと」をまず分ける見方が新鮮だったんです。それはちょうど今の生死もそうだけど、今日の真実と真理を分けみる観点と重なっていると思いましたが、どうでしょう。


N'da: 『ニコマコス』に登場する魂の知的な部分の分類のことですね。理知の対象は当然、それとかかわる人の側との関係をもつから、魂、こころの側にも相応する部分が想定されるわけです。

 すでにいったようにアリストテレスもその分類を日本語でのように真理と真実という具合には表現していなかったと思うけれど、「他の仕方ではありえないこと」つまり必然的にひとつのものに定まっているものごと、三つの線分がそれぞれの端点で互いに接していれば三角形であり、その内角の和は二直角であるということは文化の違いや個別特殊なかたちを超えて永遠不変の真理である。この「ある」という言い方が、じゃあ、どこにあるんだ、という問いを引き出してしまうことを懸念して、あえて言い直せば、真理でなければならない。

 それに対してもう一方の「他の仕方でもありうること」は、歴史的事実として知られていることのように、証拠資料次第ではいつでも真が反転することさえある真実のことと捉えることができます。

 先に近代啓蒙以降の言説を例に語ったけれども、いま話していることはパースペクティブを古代にまで遠く広げておさえることができるということですね。

 ところで、アリストテレスはその二分類に対して、それぞれ下位分類も示していたはずだけど、ここでの話の展開にもなるので、ついでに簡単に紹介してください。


しょうた: ちょうどその演習のノートを見ていたので、それに沿って話します。

 「他の仕方ではありえないこと」つまり真理ゾーンは、叡知(ソフィア)が対応していて、その下に学知(エピステーメー)と知的直観(ヌース)がある。

 学知は学校で教えられることや論証を進めることで知れることです。知的直観のほうは論証の出発点としてあるような原理や根本命題を知ることです。


N'da: 知的直観は原理的にはそうだけど、そうして知ることはまさに学究における発見のようなこと、あるいはソクラテス/プラトンが『メノン』で想起説を語ったような経験する以前に、先験的にわきまえている原理を思いつくといった話ですね。現代では誰もがそうであるように、多くの原理や公理、定義は学知として教えられ、そこから論理的に学んでいく、いや論理も気にせずただ丸暗記というところかもしれないけれど、ともかく表面的な学知が肥大していて知的直観の養いは乏しくなっている。それだけに、いままさにここで追っていることは学知だけれど、それを確認しながらも、なお個々に考えつづけてほしいわけです。さて、もう一方の真実のほうは?


しょうた: はい、「他の仕方でもありうること」。これには技術(テクネ)と知慮(フロネーシス)をおいています。テクネは制作をする知だから、たとえば工夫次第でいろいろ、という具合にわかりやすいですが、フロネーシスのほうは実践的な行為のことを指すようで、今日のさっきの話でいうと、とうき君がいっていた陽明学の知行合一に重なるのではないでしょうか。


N'da: どうもありがとう。

 知慮、フロネーシスの実践性というのは人を幸せにすることは何か?適正であるとは?麗しさとは?といった生活に即したことを考え、あるいは行為する基盤となる知のことですね。うまく生きていく上での知恵ということがあるけれど、それに近い。ちょうど陽明学との近さをいわれたけれど、格物致知の格物を「物にいたる」と読んだ朱熹ではなく、「物をただす」と読んだ陽明の観点が知慮といえそうですね。それに対して朱子学は叡知の直知に向かった。

 このアリストテレスの知の分類が『ニコマコスの倫理学』で取り上げられているのは、善や最高善といった徳と知的な営みとがどのように関連するかを考察するためでもありました。たいへん示唆に富んだだいじな話になっていますので、ぜひみなさんも、それぞれにこのアリストテレスの分厚い文献にもあたって知慮をめぐらせてほしく思います。それはまさに知的直観の養いになるはずです。


ポスト・トゥルースの背景


とうき: 前回も出てきたところだとは思いますが、昨今はとくに多様な真実のあり方ということがだいぶ当たり前のように語られるようになって、ポスト・トゥルース(posttruth)として事実や根拠にもとづくよりも、感情に訴える説得力や即応同調的な言説の魅力が真実性を帯び、まさに真実として支持されるような風潮もあります。

 そういう状況からすると、古代のアリストテレスが善や最高善と、知るとか真との関係を説いていたということにはとくに惹かれるものを感じます。あとで自分でじっくり読んでみたいとは思いますが、とくに今日的な政治やメディアの状況からすると、ここでもう少しそこのところ、どんなことが語られていたか簡単に知りたいです。


N'da: 揚げ足取りのようになって申し訳ないけれど、その「簡単に知りたい」という動機がポスト・トゥルースの背後にある問題の根のひとつだと思うので、とりあえずその点にあえて触れます。今とうきくんと同じように思った人は少なくないと思うけど、すでにこの時点で手元の端末に「アリストテレス ニコマコス 知 善」などといれてAIのまとめに目をとおしている人もいるのではないですか?

 だから、もし今のとうきくんの求めにそのまま応じることは、各自のそれでもう済んでいる時代に僕らは生きているわけです。でもここで求めていることはそういうことではなくて、そういう簡単に知れるような、というより、大規模言語モデルを介して知ったつもりになることの先へと超えていくことだから、社交辞令的な言い回しではあるとしても「簡単に知りたい」といったインスタントな発想は避けようじゃないか。少なくとも「象徴国家論への道」を歩もうとするならば、ということです。

 と前置きしたうえで応じるわけですが、『ニコマコス』ではちょうど「考えが深い」ということはどういうことなのか、それについて考え述べていたはずです。そこのところ、しょうたくんのノートから展開できますか。


しょうた: そうですね。ちょっと待ってください。「考えが深い」ということは、他の仕方でもありうることを、考えていく際のことでしょうから、知慮の営みだと思います、ので、、、ああそう、ここに書き留めてあります。

 すでにわかっていることならそれ以上、思案しようとは思わないから、教科書に正解はこれ、と書かれているようなことを学ぶ場合は深く考えない。これは自分の経験からも納得したのでノートにはアンダーラインまで付けてあります。高校までの学校の授業ではつっこみは周囲の空気を乱してしまうから、個人的な関心から追求したくなるような疑問は意識して避けていたほどです。今はそこから解放されましたが、、、。

 考えが深いということは勘の良さとか判断することとも異なる。つまり、考えが深いというのは推理を重ねて考えること。しかも時間をかけてじっくりと。

 でもそれではまんまですね。それにじっくり手間をかけて考えても誤りに至ることはあるし、結果が良からぬということもある。それは考える仕方が適正でなかったからだといっています。ということは少なくともアリストテレスのいう「考えが深い」ということには何か「善きこと」が前提に含まれているようです。


N'da: それはひとつのポイントですね。「考えが深い」の「深い」には何か人間として考えることの奥深さには善さがおのずと含まれているとみる。悪行を計画するにも深く考えて練りに練るということが当然、あると思うだろうけどそれは考えに考えを重ねて考えているだけであって、その考え自体はどこまでも底が浅い、浅はかとみる。それが深く考えられているとすれば悪になろうはずがない。「えっ、どうして?」と思う人がいるだろうけど、すぐあとに説明します。

 とにかくここでは考えるということの深浅の違いに善の尺度を当ててみるわけです。するとよくいわれる「戦略」などというものは、どんなに周到に立てられたものであろうともそれが戦略であるかぎり、浅く薄っぺらなものでしかないともいえてくる。戦いの計略が巧みになされるところに人間の善、ましてや最高善といったことが基底になっているはずがない。

 先の応えでもありますが、そういいきれてしまうのは、「それは人間であることとどういう関係があるか」という問いかけのあるやなしやで尽くせることだからです。善の尺度とは何かという問いも、この「人間であることとどういう関係があるか」という問いで置き換えることができます。

 で、はじめに戻ると、端的に知ろうとかインスタントにわかろうといった動機に伴う「浅さ」には後ろめたさはないか。ないとすればそのやましさを感じ取る感性を磨くことが課題になります。

 ではその感性はどうすれば磨けるの? しょうた君、アリストテレスからの示唆は見いだせますか?


しょうた: いまおっしゃった点はニコマコスの授業からは自分の力量では読み取れなかったのですが、考えが深いことの条件として「すぐれた仕方で考えること」についてはノートにとりました。では、そのすぐれた仕方、考え方が適正であるためにはどうしたらよいのか。それは「善を手にしていることだ」ということです。

 とノートを取りながら授業の時は、なるほどと納得した気がします。でもいまこうしてあらためて振り返ると、そのすぐれた仕方で考えるために必要な「善」はどうやって手にするのだろう、検索して出てくることばを読んだり、ニコマコス倫理学の章をAIで要約して読むことでお手軽にわかった気になることにやましさを感じるようになるには、たぶんその「善」を手にすることが必要だという気がしますけれど、それにはどうすれば、、、? と思います。


N'da: それで十分だと思います。つまり、考えが深いことに伴っていることは「善」であるようだ。でもじゃあ、その「善」はどうしたら手にできる? そもそも「善」とはなんなんだ? というところに立っているからです。

 するとその善だけど、それは他の仕方でもありうることのなかにありそうなのか、それとも他の仕方ではありえないことのひとつなのか。それについてはどうです。いまの立ち位置から先にみえる領域ですが、、。


しょうた: アリストテレスやプラトンを踏まえれば、あきらかに他の仕方ではありえない真理の世界であるようにみえますが、、。


だいすけ: でも、君にはそれがよくて最高かもしれないけど、ぼくにとってはこっちがよいし、それが最高によく思えるけどな、といったことは当たり前に許容されているはず。そのそれぞれの最高、多様性がボスト・トゥルースを支えているのではないか? とすれば見えている先にあるのは、他の仕方がいくらでもある世界ではないの?


しょうた: うーん、確かに、、。


ヨイ・ヨイ・ヨイ・ヨイ


N'da: いや、ここで詭弁といわれるかもしれないけれど、英語ではgoodという一単語で語られてしまう概念を日本語では都合よく、「善い」「良い」「好い」「よい」などと表現できるので、それで分けみることにしよう。

 だいすけ君のいう「ぼくにとってのよい、あるいは最高というのは「良い」や「好い」でしょう? これは各人にとっての良さ、好き嫌いはもとよりそれぞれに個別特殊な嗜好を表現するにふさわしく、個性を基礎づけるだいじなところでもある。当然これは他の仕方がありすぎるくらいの真実の世界における「よい」です。

 他方、しょうた君がいま、考えが深いことを巡ってそれに相伴う観念としてみている「善」という「善い」は個々人に特有のそれではない。この「善い」は文化も歴史も肌の違いも個性も超えたところ、「人であることとして」「人間としてある以上」という普遍性を前提にしたうえでの「善さ」を想定しています。つまりしょうた君の眼前にあるのは他の仕方ではありえない真理の世界だということです。

 でも彼が、ではその善とはどういうものなのか、となるとたじろがざるをえない。とはいえそれを知りたいものだとも思う。

 でもそのひるみ、尻込みは至極当然のことといえます。なぜって真理ということはそう易々とはみえてこないところ。ましてや真理としてあるものごとをつかまえることなど、果たしてこの人間にできることなのか。なにしろ虚と綯い交ぜになっているところでどこまで深いのか、高いのか、もわからないところです。

 それは先の三木の話でいえば、死と向き合う虚無の場所でもある。となると人生たった一度きりの場所ということにもなりうるし、と同時に誰にとってもきっとやがて至る場所として約束されてもいるところともいえる。だから決して誰にとっても無関係なところではないわけです。まあ、これはすこし突っ込みすぎかもしれないけれどね。


善の場所って遠くないですか


とうき: するとまた先に話したことに関係してきますが、ひとつにはそういう究極の場としてありそうな真理世界は、少なくとも日常世界で実践的に生きるぼくらにとっては遙か遠いところにあるもので、真理の追究といったことはとりあえず棚上げしておいて、優先すべきは真実、それも各自にとっての真実を求めていくことだ、ということになりませんか。

 だからその流れのなかで結果として「それは誰がなんといおうとわたしにとっての真実だ」といったポスト・トゥルースや反知性主義的な動きが生まれてきたことも理解できそうに思えてきますが、、。


N'da: 後半はそのとおりだと思います。真理のことはそれ以上思案しようがない、つまり他の仕方ではありえない確立したことがらとしてあり、その他は漠とした虚だから、それこそ簡単に「それがいったい何の役に立つの?」とも揶揄される。因数分解や連立方程式の解き方は社会に出て以降一度たりとも役に立ったためしがないなどと(cid:7821)笑されたりする。それにうなずきながら正しさの多様性が支持され、自分が認めないすべては誤りと発言する結果ももたらされている。

 しかし、前半には見落としがある。結局、後半の事態がもたらされているのはいわれたとおり反知性、つまりアリストテレス分類でいえば反叡知によって真理世界を棚上げするような暴挙というか愚挙に走ったことで、もとより多様な真実を見定める軸を手放してしまった。結果、他の仕方がありうる領域を不幸にもアナーキーにしてしまったのです。

 さきにも触れたけれど、真理はわたしたちにとってインスタントに達せるとか、つかまえられるようなお手軽処ではなく、大方の西洋流にいえば聖域のような高みにあるか、老子にいわせれば深奥の玄といわれるような畏れ多きところでしょう。しかしそうでありながら、人として生まれその精神を使うには軸や根、あるいは基盤として意識せざるをえない界域なのだと思われます。

 精神ということばそのものが神の精と語っているとおり、その生息域はデカルトが脳の松果体を中継所とみたように身体内外の通態性が想定されている。むろん英語のspritでも同様に想定されています。これを魂と呼んでもこのことばが聖霊的な意味をもつことは周知のとおりです。ただし、ここで身体内外といったときに、じゃあ、その外はどこらあたりに?と探そうとすれば無駄足になる。この場合の外は超越ですね。少なくとも五感で捉えて経験する範囲のことではない。


だいすけ: それはいわゆる第六感で、ということですか?


N'da: そうですね。その第六感という意味がなにか神秘的な力、霊力のようなものとして受け止めるのではなく、まさにアリストテレスの分類でいうところの叡知のなかの知的直観とみればよいかもしれない。しかも、これは視覚や聴覚といった五感と同列のひとつとしてあるというより、それらで知覚されることの先にあるもので、そこには知覚経験を踏まえての、という含意があります。だから、少なくともここでいっている直知とは人里離れた僧院でひたすら瞑想を重ねて悟りをひらくといったこととはかなり違っていて、あえていえば世俗のただなかで豊かな知覚経験をつうじてとらえられた実の、さらにそれを超えた先を直観して知る営みというところです。

 反面、真理についていえば、真理の探究というのは朱熹のいったように知るに至ることを目的にはするものの、実際に至りつかまえるという結果はその第一義ではない。というのもそれは人には土台無理なことだから、、、そのことを含みつつ、至ろうとする過程の営みこそが第一義にあるということでしょう。

 そしてそれ以上に大事なこととして、それはここでいう「真実」の追究にとっても第一義としてあるのだという点を強調しなければならない。つまり「真理」の追求という営みがないがしろにされたら、日常の小さな「真実」、実践上のまこともうまく捉えられないだろうということです。その結果、それぞれに手にしたものを、これがわたしの真実、それはあなたの真実なのね、でもわたしからすれば虚偽でしかない。なんて言いあって虚無に陥ることになる。


知るということ


 このことをあらわすために先ほど示した図を展開してあらたな図を示します。 まず「知る」ということですが、この「知」という漢字は口から矢が放たれている様子をあらわしています。この場合、矢はいうまでもなくことばです。そのことばが、ずばりものごとを言い当てている状態。つまり、それが「知る」です。この場合、口を的とみてそこに矢が当たっている様子を重ねみることもできます。

 つぎの図はその知として矢が放たれている場を真実領域においてみて、4方向にそれぞれの矢が別々の方向に放たれ、それぞれの的に当たっている様子を示しています。これは四者おのおのの観点でそれぞれに各々の仕方で知っている状態です。ここでは真理のことは実用には役立たないこととして顧みられず、そのことを強調するためここでは真理域を小さく示しています。

 この反叡知状態の反は真理知に向けられたものであることはあきらかで、ポスト・トゥルースのtruthも他の仕方ではありえない真理を指して、それを背後に追いやり専ら真実と偽のただなかにいるというわけです。だからなにが本当の真実なのかわからない、という無秩序状態にあり、つまりは本当の真実なんてないんだという雰囲気が蔓延している。


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これは真理が生息する自然の理を無視し、それぞれの人為に依拠しためいめいの真実が野放図に放たれている状況をあらわしています。人類にそうした状況を現実にもたらしたものはいうまでもなく、、、。


だいすけ: インターネットですね。


N'da: はい。前回は機械論的な観点が現代人のものごとの見方、思考方法に及ぼした悪影響について語りましたが、この真実語りの野放図状態はその惨めな方向での帰結のひとつともいえます。

 機械論的思考はテクノロジー、すなわち科学技術と相性がよい。科学技術の世界はメカニズムの世界といえる。本来、この「科学技術」ということばは読んで字のごとしで「科学」と「技術」の組み合わせで成立していますが、実はこの科学はふつう自然科学のことを指しますから、両者の真の置きどころは科学が真理であり、それに対して技術が真実になる。そのために科学技術の真を問うたり語ったりするときはたいへんむずかしい局面に立たされることになりがちです。典型的には現実が理論どおりには運ばないということですが、これが結果に危険が伴う場合、当然厄介なことになります。大方の場合、科学技術は技術のことであって技術科学ではないのだから、という諒解のもと真理を背後にして真実を語ることになります。

 このとき真理を背後にすることの意味は大きく二手に分かれ、一方は背後に回していつしか忘れてしまう、あるいはそれを後ろ盾に活用するまで、とするようなまさに実用主義の文脈で科学を恣意的に利してしまう。これが真実語りを野放図にしてしまう途ですね。

 でも、真理を背後にすることの意味のもう一方は、同じ背でも真理をバックポーンに据えて、それを支えに技術の真実を追うという方向です。これは単なる「知る」という行為を「知識」にするということにも重なります。それを示したのがつぎの図です。 ここでは真理域を前と同様大きく描き、真実においてものごとを言い当てる知るという射的行為において、その的を射るにあたって射手が弓を引き絞るときの様子をあらわしています。このとき実は、向こうに狙う的とちょうど反対称の方角と距離に、裏的(うらまと)といわれる虚像の的がイメージされています。つまり、射手を軸にして表と裏の的が均衡をとるかたちで矢が放たれるという具合です。真実の的はそれに相応じる虚としての真理が的確に捉えられている。それでもって首尾よく射当てることができるというわけです。

 この虚点としての真理を「識」とし、この射的をもってはじめて「知識」が成り立つともいえます。「識」は「識る(しる)」とも読めますがその識り方は認識であり、他方の知るほうはあくまで認知としての知り方になる。ここで認知と認識の違いは認知が知覚としてどうとらえうるか、なにが見えてなにが聞こえるかが先にたちます。他方、認識は無意識を含めた意識内容を指します。真理における虚は無意識とのつながりが深いということです。


だいすけ: とても刺激的な図ですが、真理ゾーンで意識なり無意識が捉える裏まとが気になります。真実に向けた知る行為の的に対してその反対称に裏的が据えられるとして、それが単に狙う的との物理的な反対称の関係であれば、それもまた各人各様の関係で捉えられてしまいませんか?


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N'da: この射的のモデルはいうまでもなく比喩として語っているので、そのことは十分こころしてみてほしいところですが、今の重要な問いは、そうなるとすればやはり真実の界域内でものごとを考えようとしていることになり、裏的もまた真実の射程内に留まり浮遊していることになるでしょう。


真理域に裏的を捉えて的を射た真実


だいすけ: すると図のように真理域に裏的を捉えて的を射た真実の場合、各人各様の真実、ポスト・トゥルースにおける正しさとか良さとは違って、どういう真実といえますか。真理的真実といったことになりますか?

 それとそうして捉えたときの裏的には真理域においてなにが相当しているとみればよいでしょうか? それはたとえば真実で捉えようとしているものの虚像といったものなのか、あるいは鏡像といったことになりますか?


N'da: まず、真理域に裏的を捉えて的を射た真実とは、どういう真実と呼べるのか、ですが、人それぞれに真実があるという多様な真実観には根本的な誤りがあり、真実であろうとただ一つであるはずだ、という立場からいえば、そのように、つまりバックボーンに真理を据えて捉えられたものこそが真実の名に値するということになるでしょう。またその他の各人各様の真実なるものはまさに人が為すところの偽ということになる。なにしろこの真実の界域は偽が浸潤していて、すでにはじめにいったように少なくともここでは、真実と偽を分かつように描かれている境界線は真と偽の濃度比が転換する境をあらわすようなものとみていますから、真実の界域といえども偽に満ちている。

 でも、この界域には「真らしくみえるもの」とあえて書き添えてあることに気づかれていると思います。それは真実なるものがたりにおいては偽を自然かつ肯定的な人為のありようと捉え、ただ一つの真実そのものはともかく、およそ真実として語られるものは真らしくみえるものとしてあるという見方をとることもできる。翁自身はこの観点が妥当だと思っていますが、そのうえで各人各様の真らしきものが語れるなかにおいても、よりいっそう真らしくみえるものはあるだろうと思うのです。そして願わくは、わたしが、ではなく人としてより真らしくみえるものを求めつづけることが、わたしたちの営みに欠かせないと思うのです。

 そのときそのよりいっそう真らしくみえる真実を捉えるための基軸なり構えとなることはなにか、となる。そこで真理域に把捉される裏的いかんということになります。

 では、真理に裏的が捉えられるとすれば、そこにはなにが認識されるのか。言い換えれば、知ったものが知識となり得るために必要とされるのは何か、ということになりますが、それはこの図にも書き加えたようにおそらく「善」ということになる。それは先にもいったように、人それぞれにとっての良さでも好さでもなく、人間であるということにおいての善さです。


とうき: そうですか。それを聞いてさっきの考えが深いということの意味と真理における観念が簡単には捕まえられるものとしてはないけれど、つねに人として追求されるべきものとしてあるということがつながったような気がします。

 これまで僕は王陽明が朱子学と袂を分ったときの話から、彼が真理世界の究理に愛想をつかし、もっぱら真実世界での実践に生きようとしたのだと簡単に解釈してきましたけど、ここまで来てそういうことではなかったようだと思い直しました。陽明学では致良知もひとつのキー概念ですが、それは今日の話をベースにすればむしろ致善知ですね。良知だと「僕は僕なりに知っているぜ」と個別特殊な知り方を間違って支えてしまうことにもつながりそうだと思います。どうですか。


N'da: 陽明学の体系はむろんここで示した図をもとに語られているわけではないので、良知はおそらくとうき君がいうように善知のことを語っていて、つまりは致良知も致善知のことを指しているのではないかと思います。だから、知ることの遍在が著しく強まってそれぞれの知り方を良しとせざるを得なくなった現代のような時代にあっては「致良知」は誤解されないように呼称を変えたほうがよさそうだとさえ思えますが、それはさておいて、まさにだからこそ格物致知の「格」を「いたる」ではなく「ただす」とした王陽明の読解は、ここでの射的の構えに重なるものとして至当といいたいところですね。


だいすけ: 俺も今日のお話しを聞いて、かっこよすぎですけど、あらためて真理に背を向けることなく、むしろ正面から向き合っていきたい! と思いました。真実の射的では背を向ける格好になるのだろうけど、背後の眼で捉えるということも虚のゾーンを見つめる場合はなんとなく似合ってますね。

 個々人にとっての好さでなく、普遍的な善さって何? むずかしすぎ、そんなことありえねえ、ではなくて摑むこと云々より、見失わないよう考え続けることがだいじ、ということが一番身にしみた感じです。


N'da: それはよかった。

 善とはなにか、ということを問い続け、それに当座の応えをした人たちは有史以来、たくさんいることは皆も承知のことと思います。まずはそれらを手がかりにそこに直ちに正解を得ようとするような安っぽい動機はなしにして、自分たちで考えるための、その接近のよすがとしてあたっていってほしいと思います。

 最後にふたりが今時点で考えるところの普遍的な善とはどんなものかを語ってもらおうかな。


ユニバーサル・グッドネス


だいすけ: 翁、引っかけようとしましたね。普遍的な善といったことは考えつづけなきゃいけないこととしてあるけれど、とりあえずこう考えます、なんて語ってしまったら、そんな軽いもんじゃないと、いうことになるわけでしょう。


N'da: いや、ごめん、ごめん、だいぶ懐疑的にさせてしまったかもしれないね。その今だいすけ君が最初にいったことが但し書きとして付け加えられ、あるいは共有されているならば、「とりあえずこう考えます」は当然交わし合ってしかるべきさ。そうしなければ相互考察の交流、つまりディスカッションの意義を失することになる。考え続けることのだいじな営みはいつも各自独りでせよ、ということではないからね。むろん互いに真理には達してなどいないだろうけど、その道のりにおいて自分としては今こう考える、ということが交わされなくては、決して一人きりではない「人間であるということ」とも関係づけられないでしょう。


だいすけ: 了解です。、、、人類に普遍的な善、、、とりあえず思うに最大多数の最大幸福とは違う意味で、一人ひとりの幸福感をプラスマイナスで自己評価したときに全人類の総計がプラスであること。ほんとにとりあえず、の今の応えです。


とうき: 僕としては、今日の話をつうじて、ものごとに取り組むときの自分の姿勢に現れ出てくるものが善なんじゃないかなと、うっすらと思うようになりました。善は何か対象としてあるというより、ある行為のなかにおのずと現れてくるといったイメージです。


N'da: ありがとう。それでは翁も自分のいま思うところを示しておきますが、皆も承知のことと思います。ソクラテス/プラトンの太陽の比喩で語られた善のありようが昔からずっと気になっています。

 お日様の光のおかげで僕らは周囲の光景、現象を見ることができますが、これが真っ暗闇では視覚的にはなにも認知できない。眼があっても機能しない。これと同様に、善というのは認識における光にあたるもので、これがないと真理認識は虚につつまれたままになる。たとえ万人に公平に授かっているはずの理性があってもそれが機能しない。だからなにかを知ってもそれは知識として定位しない。

 理性の動物であるはずの人間がなぜ? という問いかけがいろいろな局面で語られますが、それは善の光が届かず理知が働けずにあるから、というとてもシンプルなかたちで語れるように思います。真実を的確に射るための裏的という虚点を的確に照らし、それを背中の眼で捉えるためにも善の光が不可欠というわけです。だから、人間理性を普遍として語りうるとすれば、そこにはその理性が真理をとらえるための善がなくてはならないものとしてあると思っています。


以後すべてはプラトンの注釈にすぎない


だいすけ: 前に線分の比喩がメビウスの帯になりましたが、太陽の比喩も真理と真実の関係においてあらためて捉え直されたわけですね。たしかに善というと何かがすぐれていることとか、幸福に生きるためとか、よりよく生きるためという方向で考えがちですけど、真理を照らす光という見方は魅力的です。


N'da: さて、そういうことで今日は当初想定していた以上に、真理と真実の関係にさらに立ち入ってみることになりました。それはやはり世界的なインターネット活用の定着もあって、いっそう表面化しているポピュリズムや反知性主義的な傾向に対する懸念や戸惑いも今の問題意識として色濃くありますから、この件についてすこし丁寧にみずには済まなかったというところですね。

 もっともこうしたことに時間を使って理性だの知性だのと区別あるなしのことがらについて語るような行為が、そもそも反知性という動機を誘引していることもあるかもしれません。ここではそこに傾きがちになる手前で、すこし踏ん張って考えてみたつもりです。

 すでに前置きはしましたが、おしまいに再度確認しておきます。ここで図示したモデルはあくまで説明上の便宜を優先したもので、ゆめゆめこのようなかたちに真理と真実の関係が固定化されてあることを示すものではない。このことは念をおしておきたいところです。これらは強くデフォルメした戯画にすぎず、それでもこれを手がかりになにか新鮮な思いつきが生まれれば、というほどのものです。

 どうしてもこのような図であらわしてしまうとメカニカルなパーツの組み合わせの姿とそこにある仕組みを示しているように見えてしまう。でもそれは前回以来、回避を促してきた機械論的な接近法です。この図が示していることはそうではなくて、もとは一のものとしてあったものが次第に分化発展する営みのなかでのある瞬間を捉えた姿といったところです。だから、そのどの部分、真理にも虚にも真実にも偽にも真らしきものにも虚実皮膜にも、もとの全体であった一の性格が伝えられているはずです。それはどの一部のこと、たとえば真実や虚が語られているときもその起源の全一性が根底にあることを忘れることができないということでもあります。したがって、分化によって今はまったく性質を異にする関係があって、そこに矛盾さえみえたとしても、なおそこにオリジンの同一性を認めうることにもなる。それが有機体論の根幹を貫く見方になります。

 近代以降の思考は、各自が公平に与えられている理性にしたがって自分の頭で考えることに目覚めて開花しました。それは与えられた規範知を信じることのたいせつさを根拠にただ受け入れてきたなかから、やっと分化して芽生えた能動性であったから、それをなしうるだけの力や勇気を要するものであった。根底にはもっと楽な受け身のままで暮らせるこれまでの意識がつねに引き戻しを促すものとしてあって、それは現在も基本的には変わっていない。

 ここにはもうひとつのソクラテス/プラトンの有名な比喩、洞窟の比喩がみえてきますね。そんな無理して洞窟を出て行こうとせずに、こうして鎖につながれていてもろうそくの火で照らし出される影絵、いまなら画面ですね、を見つめながら、みんなでああだ、こうだとおしゃべりしていようよ、一所懸命がんばって出て行っても洞窟の外の光なんてまぶしすぎて眼を悪くするだけだよ。ってなわけで、古代ギリシア以降、この2500年、結局人類がその技術知をたくましくして歩んできた進歩とは、実は洞窟のなかで鎖につながれたまま、できるだけ歩まずに、むしろそれを楽ちんとして受容する生き方であった。このとても情けない情況が展開していることに、いろいろな意味で驚きをもってみずからをみつめながら考えてみる必要があるように思えます。

 ただ、ついでにもうひとつ付け加えると、この洞窟の比喩はまさに洞窟ということから自然に類推してしまうことになるけれども、それがいう洞窟から外に出るということは、いわゆる外の世界というより、かえって反対にこころの内部に向けての超越、無意識的な虚、絶対無の場所として真理と真実からなる真相の世界に対峙することを指しているとみたほうがよいように思えます。洞窟の外に出てみるというとまるで影絵が映し出している真実の世界を直視するかのイメージをもってしまいそうですからね。


とうき: その真相世界の善の光に満ちた絶対無の場所がまぶしすぎて眼を悪くするという噂も気になりますが、、。


N'da: そう、だから今日話してきたように、対峙の仕方ですね。真正面に立って真理を見つけようとするようなことではなく、今日いったようにそれを背後にして裏的に捉える技を身につけるべく自分の処し方を磨いていくということではないだろうか。


だいすけ:、とうき: ありがとございました。


次回(6)につづく



著者プロフィール

N'daHaSatomohi(ンダ・ハ・サトモヒ)

 太平洋戦争敗戦から十数年が経ったころ、この世に生を享けた。その経緯から、自分の少なくとも魂はどうも南方戦線あたりで死にきれずに彷徨った学徒の英霊がやっと故国にたどり着き転生したのではないかという思いを胸の内に潜ませてきた。でありながら高度経済成長の時代に少年期を過ごしバブルに興じて甘すぎる人生を歩んできてしまったことへの自戒がある。人生晩期に至り、いったい自分はなにを学びえたのか、同時にその黒板を背にしてなにを伝えられえたのか、と、より深い自省の念にかられ、これからの人たちのためのこの国について、人類としてもつあの原アフリカへの憧憬とそこから今なお胎動してくるパワーを借りた化身となって、ここにその構想を語り始めているものなり。


 なお、ここでいう原アフリカとは、現生人類の起源はアフリカにあり、そこから20萬年にわたる遺伝変異と移動のグレートジャーニーを経て、いまの肌色をあたまに多種多様になったわたしたちがいるという定説を一応踏まえて、その多種多様さの必然的交錯としての偏見といさかいに呆れつつ、おい、もういい加減にせい、と叱る大本祖先ンダムとンヴのふたりが立っていた大地のことを指している。

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