餃子ポエム - 2025.5〜2026.8
- 8 時間前
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エディター佐伯の徒然日記とも言える餃子ポエムの軌跡を掲載。
残業や飲み会帰り、深夜まで営業している街中華でひとり餃子を咀嚼しながら、頭に思い浮かんだ思考を書き留めたのが餃子ポエムである。
こうして眺めてみると、最近ではポエムというよりエッセイになってきている。まあ思考というものは統一性がないもので、その時々でいろんな方向を向いているのも面白い。
一人考え込む場所が、人によっては喫茶店、サウナ、座禅、登山、散歩などなど様々だろう。それがエディター佐伯には、餃子の孤食ということである。
2025年5月7日から始まった全32篇を餃子トリプルの写真とともにお楽しみください。
2025.5.7

餃子トリプル。
定食やコースに対して、
1種をたくさん食べるというやり方もある。
コンビネーション無しの一点突破。
2025.6.3

餃子4皿
2025.6.6

やっぱりトリプルがちょうどいい
2025.6.9

ダブルじゃ、届かない夜がある。
だから、トリプル。
ひとくちづつ、じぶんを取り戻す。
空腹は生理、食欲は哲学。
ダブルは妥協だ。
トリプルは人生への賛歌である。
誰かの「多すぎる」より、自分の「ちょうどいい」を信じたい。
節度とは、美の仮面をかぶった臆病である。
私は、あえて崩す。
トリプルを頼む。それが私の秩序だ。
2025.6.10

ダブルでやめる人と、
トリプルまで行く人とがいる。
たぶん、それだけの話なんだと思う。
2025.6.16

餃子をトリプル頼む男に、恥はない。
あるのは、ただ潔い堕落である。
禁欲に美徳を見出す者は、餃子の三皿目を知らないのだ。
2025.6.23

餃子は律儀だ。
今宵も同じように焼かれている。
だが口にする我々は、
欲も、痛みも、少しずつ違う。
それでいい。だからいい。
年々歳々餃子相似たり、
歳々年々人同じからず。
2025.7.10

語り合い、笑い合い、別れたあと、ひとり餃子屋に腰を落ち着ける。
トリプルで頼んだ餃子を黙って噛む。
音なき夜に、会話の熱がじんわりと戻ってくる。餃子と孤独。なんとも、いいリズムだった。
餃子を三人前、黙って平らげたとき、胃袋の奥にまだ一頭、空腹という獣がうずくまっていた。

そこで迷わずニラそばを追加する。
この決断に理屈はない。ただ、渇きと熱が命じただけだ。
油とニラの流れが胃の底を撃つころ、ふと脳裏をよぎる声があった。
「引かぬ!媚びぬ!顧みぬ——!」
健康のバランス?後悔の予感?
そんなものは、ニラの香りとともにすべて噛み潰した。
孤独にして贅沢。哀しくも痛快。
そういう夜が、人生には必要なのだ。
聖帝サウザーも、きっとニラそばくらいは食ったに違いない。
2025.7.15

蒸し暑さに身を焦がし、自転車を漕ぐ。
夜の匂いが鼻をくすぐる。
行き先は決まっている。
餃子、餃子、そして餃子。トリプル。
それが男のロマンであり、
ほとんど宗教である。
2025.7.19

餃子トリプルとは何か。
それは、単なる「食物」であるという常識と、ひとつの「概念」であるという非常識とが衝突する臨界点において、アウフヘーベン的運動を経て立ち上がる閃光を発生させる装置であると考えてみる。
その光は、もしかすると宮沢賢治が『春と修羅』に書いた「因果交流電燈」のひとつ、すなわち私と餃子のあいだを媒介する、思念(エネルギー)の残響なのかもしれない。
2025.7.25

本日もまた、餃子トリプルを食す。
これはもはや日課というより、一種の儀式である。焼き目のパリッと感、皮のモチっと感、内包された熱気と肉汁の炸裂。それらすべてが、私にとっては瞑想の刻を告げる鐘の音である。
この時間には、私なりの厳格なルールがある。携帯電話を一切手に取らぬこと。凡なる連絡、軽佻なる情報の流れは、この荘厳なる三位一体の味覚体験を冒涜するものである。
視覚と味覚、そして沈黙を介した内省の世界が、餃子と私との間に緊密なる関係を築き上げる。その微細なる精神の陰翳を、通知音ひとつで崩してはならぬのだ。
この戒律は、私にとっては餃子であるが、誰しも同じような「場」を持つだろう。ある者にとっては散歩が、ある者にとってはサウナが、またある者にとってはただの夜の風が、己を取り戻すための聖域となるのだ。
2025.8.13

餃子トリプル
滋養強壮
諸行無常
自問自答
2025.8.27

今宵、餃子トリプルを咀嚼しつつ、社会の構造とその秘められた運動について思索を巡らせる。
都市においては、ゲゼルシャフト的な組織とゲマインシャフト的な組織とが、まるで対極の磁極のごとく相反しつつも、不可避に接近し、互いの力線を歪め合う。
その相克のただ中において、二つのシャフトは結びつき、やがてひとつの運動体へと昇華し、新たな軸を孕むのではあるまいか。
この夜、餃子のトリプルという語が媒介となり、ふと胸中に閃きが降り立った。
そしてその閃きは、黎明の静けさに漂う暁光のように、荘厳なる未来の予兆として、静かに私の内奥を照らしはじめたのである。
2025.9.2

今宵もまた、餃子トリプルを咀嚼している。されど、これは単なる飽食のための行為ではない。
なぜトリプルなのか。
その意義を語らずにはおれぬ。
腹を満たすことのほかに、十八個という数が孕む象徴的な意味を私は見逃さない。
能楽の大家・世阿弥は人生に三つの初心があると説いた。
第一に「ぜひ初心忘るべからず」、第二に「時々の初心忘るべからず」、そして第三に「老後の初心忘るべからず」である。
三つの段階を踏む人生の相を、私はこの十八個の餃子に重ねてしまうのだ。
一つ目から十八個目に至るまで、その味わいは微妙に変容してゆく。
熱気に舌を焼く序盤、馴染みを覚える中盤、そして冷めてなお芳しい後半。だが、その変化は単なる温度の推移によって説明されるものではない。むしろ、食む者の心象に応じて新たな風景を現すのである。
日々同じように繰り返される生の只中で、認識の相違によってその趣が変わる。餃子トリプルを食すという営みは、まさしく人生の縮図であり、変わらぬ形の中に変わりゆく味を見出す、秘めやかな遊戯なのである。
2025.9.17

久しぶりに餃子トリプルを頬張りながら、問答でも始めるつもりだった。
だが、気がつけば思考はどこかへ逃げ、ただひたすらに餃子を噛み砕いていた。
皿は空っぽ。
まあ、こんな日もある。
2025.9.22

月曜から夜更かし。月曜から餃子トリプル。なぜまた、週明けの青息吐息の月曜日から餃子を三皿も平らげねばならぬのか。
理屈を探しても、どこにも落ちていやしない。鴨長明は、あの『方丈記』の冒頭でこう書いた。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとまることなし。」
餃子を欲した刹那の気持ちなんぞ、泡のようにぱっと立って、ぱっと消える。
よくよく眺めていると、皿に並んだ餃子は川に浮かぶ笹舟に見えてくる。ひょろひょろ流され、どこへ行くとも知れない。
その笹舟は、つまるところ、行く川の流れに押し流され、もがきながらも笑っている俺自身の姿だ。
2025.10.21

世界大統領の企画がおぼろげながら見えてきた。めっちゃ面白くなりそう。
企画を進めてて改めて思うのは、思想、哲学の影響力の凄さ。
今宵も餃子トリプル。諸行無常。
2025.10.22

連日のトリプル。
世界大統領が提唱する「Meta Commonwealth(超共同体)」は、国家や市場を否定するものではなく、それらを包み込みながら柔軟に変化し続ける有機的ネットワーク社会の構想である。
従来の国家制度が抱える硬直化や格差の問題に対し、中央集権的な統治ではなく、市民・AI・政府・企業が相互に関係しながら課題を共有し、データと倫理を基盤に協働していく協治を土台とする社会。
Meta Commonwealthは一つの体制ではなく、「呼吸する秩序」であり、対立よりも調和、支配よりも共鳴を重視する。世界大統領は統治者・奉仕者ではなく、異なる価値や文化を共鳴可能にする調律者。
2025.11.20

保守だのリベラルだのと、世間はやたらと線を引きたがる。だが、人間の内側には、そのどちらも泥のように混ざり合っているものだ。
自分は長らくリベラル寄りだと思い込んでいた。ところが、よくよく考えてみれば、こうして毎度同じ店の同じ席に腰を落ち着け、餃子トリプルとノンアルのビールを欠かさず頼んでいる。
喉が渇いた旅人が川を求めるように、どうにも餃子が恋しくなるのだ。
2025.12.3

本日も餃子トリプルを噛みしめながら、ついでに今日という日の出来事まで噛みしめてみる。
「三人寄れば文殊の知恵」とはよく言ったもので、今日の打ち合わせもまた、互いの経験や知識が湯気のように立ちのぼり、話はたびたび脱線しながらも、妙に豊饒な時間になった。
そこでふと気づいたのだが、三人寄れば文殊の知恵、などと欲張るなら、まずは当たり前の話として、全員がほぐれ、ゆるみ、
声の温度が落ち着くまでのたっぷりとした時間が要るのだ。
銭湯や温泉の湯が、肌と肌の間をゆるやかに媒介するように。
時間という名の湯気が、参加者のあいだを立ちのぼらせる必要がある。
A BATHING APE IN LUKEWARM WATER——ぬるま湯に浸かった猿のごとく、しばし身を沈めていなければ、良い知恵など浮かんで来やしない。
知恵とは、急須の底に沈んだ茶葉のように、しばらく待たねば滲み出てこないものなのだ。
2026.1.5

年明け最初の餃子を頬張りながら、年末年始というものを言葉にするとしたら何がいちばん正確なのだろうか、と考えてみる。
忘年、新年、明けまして、閉めまして——どれもそれらしくはあるが、腹の底には落ちてこない。人間はそう簡単に忘れられる生き物ではないし、カレンダーが一枚めくれたところで世界が別物になるわけでもない。夜が明けるのは毎日のことで、それ自体は特別でもなんでもない。
では何がふさわしいのか。餃子の皮を破らぬように箸を進めながら考えていると、「結ぶ」という言葉が浮かんできた。
年末、三十一日までに一年を振り返り、失敗や後悔を掌で転がす。そして零時をまたぐ瞬間、それらをくるりとひっくり返して、きつく結ぶ。反省と決意を別々にせず、一本の糸のまま結び目をつくるのだ。
時間は断絶などしていない。ずっと地続きで、だらしなく伸びていく。その流れの中に、意識的に固い結び目をつくらなければ、人はただ流されるだけになる。年の変わり目とは、祝うためのものではない。結ぶためのものだ。餃子を噛みしめながら、そう思った。
2026.2.4

まともな考えや言葉というやつは、ただ机にかじりついていれば湧いてくるものではない。
ぐっと締め上げられた神経が、ふっと緩む、その落差のあいだにこそ生まれる。緊張の連打、筋トレの反復、歯を食いしばる時間、それらはたしかに成長の燃料だ。
だが、それだけでは脳味噌は干上がる。どこかで一度、弦をゆるめねばならない。
弛緩による思考のジャンプ、あるいは横跳び。
真正面から突き進むだけでは辿り着けない場所へ、ひらりと飛び移るあの瞬間である。
繰り返し言っていることだが、私にとってのその装置は、餃子トリプルの孤食だ。湯気の立つ皿を前に、誰に気兼ねするでもなく、ただ黙々と咀嚼する。油と肉汁で舌を打ち、ビールでもあればなおよし、なくともよし。
そのとき、張りつめていた糸が、じわりとほどける。ほどけた隙間から、言葉が顔を出す。
考えとは、追い詰めて捕まえる獲物ではない。油にまみれた皿の向こう側で、ふとこちらを振り向くものなのだ。
2026.2.10

祝日前に餃子トリプルを前にしている。湯気の向こうに、世間という名のぬるい亡霊が立ちのぼる。
人はよく「みんなは」と言う。便利な主語だ。自分の臆病を包み隠し、責任の所在を霧散させる、柔らかい毛布のような言葉である。
海に囲まれ、睡蓮の葉のような小さな共同体を渡り歩いてきたこの国では、その「みんな」が長らく空気を支配してきた。見えないのに、たしかに重い。吸い込めば肺の奥まで沁みてくる共同幻想だ。
ところが近ごろ、その幻想は光ファイバーを血管にして増殖している。インターネットという巨大な水槽のなかで、似た者どうしが群れ、反響し、やがて硬い殻を持つ。そこへ、たとえばケンブリッジ・アナリティカのような手口が差し込まれる。
人の欲望や恐れを数値に還元し、そっと背中を押す。今回の選挙では、その力がずいぶんと増幅されたのではないか——そんな疑念が、ビールの泡のように喉元で弾ける。
焼き目のついた餃子を噛みしめる。肉汁がひろがる。だが、今夜のそれは、いつもよりわずかに苦い。
たぶん、「みんな」という甘い言葉の後味である。
2026.3.4

本日も餃子トリプル。
奴隷根性というものは、しばしば物分かりの良さや柔軟さ、クールさ、あるいは賢さとよく似た顔をして現れる。だが本来それらは、似て非なるものだ。
これらが一緒くたに混ぜ合わされると、「これこれこういう事情だから、大国には従って生きるしかない」という、いかにも分別めいた理解へと人を導いてしまうことがある。
理想に燃える人物というものは、いつの時代でも理解し難い。世間の目には、たいてい少しばかり悪者にすら見える。だが同時に、理想という火がなければ、大人の態度なるものもまた生まれないのではないかと思う。
理想を失った分別とは、結局のところ風見鶏にすぎない。吹いてくる情報の風向きに合わせて首を回し続けるだけで、自分の重心をどこにも持たないからだ。
もちろん、世の中にはバランスも必要だろう。だが理想という重さがなければ、思考にも行動にも深さは生まれない。
そう考えると、今夜の餃子は少しだけ、いつもより苦い。
2026.3.10

今宵も餃子トリプル。
先週の日曜、ひさしぶりに映画『たそがれ清兵衛』を観た。
よくできた演出のせいか、人の性というものはそう簡単には変わらないものだな、などと思う。
しかしその一方で、江戸の末から明治、大正、昭和、平成へと、百年にも満たぬあいだによくもまあこれほど世の中が変わったものだ、とも痛感するのである。
大げさに言えば、週末の休みにAmazonプライムで映画を眺め、餃子などつついて庶民がこんな感慨を抱ける状況というのは、人類史上はじめてのことではなかろうか。
こう思うと、これから先の百年で世の中はどれほど変わるのか、あるいは変えることができるのか、わたしは少しばかり楽しみになる。
ところが、たとえば国民国家に代わる自治のかたちだとか、核廃絶のような話を持ち出すと、「侍の時代が変わるものか」とでも言いたげな顔で、事情通の解説をはじめる人が大半なのである。
さて、そこらあたりもまた、人間という動物の、なかなか変わらぬ性分なのかもしれない。
2026.4.13

本日も餃子トリプル。
孤独に噛みしめ、孤独に考える。現代のロダンは食卓に座り、思索のポーズを咀嚼で代替する。
さて、「生食パン」というものがある。
少し立ち止まれば、妙な言葉だ。「パン」はポルトガル語の pão、すなわち「焼いたもの」が語源である。とすれば「生食パン」とは、「焼かずに食べる焼いたもの」という堂々たる矛盾を看板に掲げていることになる。
「こだわり」「丁寧に」「素材の声を聞く」——何にこだわったのか、どう丁寧なのか、誰も説明しないし、誰も問わない。機能や成分を正直に並べるより、体験の予感を一語で売り渡す方が、圧倒的に効く。
「生」という一字は、その予感を圧縮した記号だ。意味を問えば崩れる。だが問われない限り、静かに光り続ける。
これは日本の市場が磨き上げた、ひとつの商売の形ではないか。反証不可能な言葉で空気を売り、消費者はその空気をありがたく吸い込んで帰っていく。以前書いた「みんな」という共同幻想が、ここでも静かに顔を出している。
餃子を一口、噛む。旨い。成分表示など、どこにも貼っていない。だが「旨い」と「生食パンの生」は、似て非なるものだ。
片方は舌が証明し、もう片方は空気が保証する。
そしてこの国では、空気の方が長持ちする。
2026.5.7

今宵も餃子トリプル。
あの選曲、あのミックス、あの場の読み方、それぞれのDJスタイルには、その人の輪郭がにじみ出ている。ジャンルの話ではない。スタイルとは、その人間の佇まいであり、態度であり、つまるところ生き方の癖のようなものだ。
多様性、という言葉が近ごろやたらと飛び交う。
結構なことだと思う。しかし多様性とは、旗を掲げれば生まれるものではない。一人ひとりが自分のスタイルを恥じることなく、謝ることなく表に晒してきた堆積の上に、気づけば景色が豊かになっていた。そういう順序ではないか。
個のスタイルがおざなりなまま「多様性」を叫んでも、それは多様な顔をした均質さに過ぎない。
個と全は、どちらかを先に語れるものではない。
根と枝のように、同時に育つものだ。
餃子を噛む。皮の向こうに、肉の主張がある。タレに溺れさせてはいけない。
2026.5.25

本日も餃子トリプル。今夜は宇多田ヒカルの「パッパパラダイス」を耳に流しながら噛みしめている。冒頭の一節、「好きなことをしてたい、愚か者でいいじゃない」、それだけで、目頭に何かが込み上げてきた。
なぜなら、普段からそう思っているからだ。
世間の論法はだいたい逆である。ちゃんと勉強して、愚か者にならないようにしなさい。東京では私立・国立中学の受験者が約五人に一人に達するという。
子どものうちから、「はみ出すな、逆行するな、時間をかけるな、意味のわからんことに首を突っ込むな」、そういう空気が、この社会の床下にじわじわと染みている。
ここで語られている「愚か者」とは何か。効率の外側にいる人間のことではないか。答えのない問いをぐるぐると抱えている人間のことではないか。そういう人間を、現代社会はひどく手際よく、丁寧に、刈り込んでいく。
宇多田ヒカルはその空気を、たった一行の歌詞で両断した。
理屈ではなく、節回しで。それが唄というものの、恐ろしいところだ。
餃子を噛む。今日のそれは、いつもと少し違う味がする。愚か者の味、とでも言えばいいのか。悪くない。
2026.6.9

今宵も餃子トリプル。
饒舌、ともかく饒舌である。
近ごろよく耳にするポッドキャストの類を聴いていると、ふと気づく。こちらを黙り込ませる問いが、思わず箸を止めさせるような話題が、ずいぶんと少ない。
台本があるのはわかる。間が空けば不安なのもわかる。だが皆、沈黙という余白を恐れるように、隙間という隙間を言葉で埋めていく。
饒舌は、心地よい。
賢そうな分析、それらしいエビデンス、再現性のない成功談、そういうものを浴びていると、何かを分かったような気持ちにさせてくれる。これが曲者だ。饒舌は、時として毒なのである。
陶芸家を志す者がいるとする。その男が、いつまでたっても土をこねない。代わりに、有名な陶芸家の体験談を、本で、雑誌で、動画で、ポッドキャストで、せっせと消費する。そして、なるほど陶芸とはこういうものか、と分かった気になる。
指は、一度も粘土に触れていないのに。
言葉で得た理解は、舌の上では立派に見える。だが手は何も知らない。轆轤の上で土が崩れる、あの間抜けで、惨めで、どうしようもなく正直な瞬間を、言葉は一度も教えてはくれない。
沈黙の中でしか降りてこないものがある。それは饒舌の対極にあり、そして、たぶんそちらの方が本物だ。
餃子を噛む。
皮の厚み、餡の熱、タレの塩梅、これは食べた舌だけが知っている。誰かの「美味しかった」という話を百回聞いても、わたしの舌はびくともしない。
2026.6.16

今宵も餃子トリプル。
九〇年代の後半、まだ二十代だったわたしは、インターネットというものに本気で胸を高鳴らせていた。これは中央集権の支配や、古い権威の手から人々を解き放つ装置だ——そう信じていた。新しい舞台の幕が、いままさに上がろうとしている、と。
それから、ずいぶん経った。
現状はどうか。
インターネットは、デジタル空間を跋扈するアルゴリズムによって、人々を小さな情報の檻に一人ずつ囲い込んだ。そしてアテンションエコノミーという名のもとに、人間の注意を一滴残らず搾り取る、巨大な集金装置へと姿を変えつつある。解放の舞台が、いつのまにか集金の劇場になっていた。
本来なら、国家を介さずとも、市民同士が直接連帯し、新しい生活の環境を築いていくことだってできたはずだ。技術はそこにある。ではなぜ、そうならなかったのか。
ものは使いようである。同じ刃物が、料理人の手では馳走を生み、別の手では血を流す。兵器となれば、地獄をつくる。
マクルーハンは、メディアとは人間の器官の拡張だと言った。耳の拡張、目の拡張、神経系の拡張。だが今のインターネットは、まだその域に達していない。器官を拡張するどころか、器官を痩せ細らせ、檻の格子を一本ずつ太くしているようにすら見える。
問うべきは、技術の善悪ではない。使う人間の側の、構えである。
いまさら、と笑われるかもしれない。それでも、この道具の本質を、もう一度この時点で議論し直す必要があるのではないか。手遅れになる前に。
餃子を噛む。皮も、餡も、タレも、それ自体に善も悪もない。地獄も馳走も、つまるところ箸を持つ手が決めるのだ。
2026.7.7

今宵も餃子トリプル。
昼間、喫茶店の隅で仕事をしていたら、隣の席から妙な熱を帯びた商談が漏れ聞こえてきた。聞くつもりはなかったのだが、耳というものは時として、自分の意思を裏切って勝手に働く。
売り手は、投資用マンションの営業マン。買い手は、若いOLさんだ。
聞くともなしに聞いていると、彼女の輪郭が少しずつ見えてくる。住まいは都内、ご両親のマンション。年収は八百万ほど、懐にはずいぶんと余裕がありそうだ。すでにワンルームを三件抱え、いままさに四件目に手を伸ばそうとしている。
ところが、だ。減価償却がどうの、税の仕組みがどうのという話になると、彼女の相槌はふっと軽くなる。わかっていない。わかっていないまま、営業マンの言葉に身を預けている。物件はまだ見ていないらしい。見もせず、「これくらい儲かりそうですよ」という囁きだけを頼りに、数千万の買い物に手を挙げようとしている。
喫茶店のテーブルの上で、である。
しかも当の営業マンが、上下チェックの、どこかホストめいたスーツを着ているのだから、聞いているこちらの背筋が、勝手に冷えていく。
数字は嘘をつかない、とよく言う。だが数字を語る口元は、いくらでも嘘をつける。彼女が買おうとしているのは、たぶん物件ではない。「儲かりそう」という、あの予感だ。いつかどこかで書いた「生食パンの生」と、同じ手触りがする。意味を問えば崩れる。問わなければ、棚の上で光り続ける。
声をかける筋合いも、勇気もなく、わたしはアイスコーヒーの氷が溶けていくのを眺めていた。
実況は、以上である。
餃子を噛む。中身が何かは、噛めばわかる。だが噛む前に金を払えと言われたら。わたしなら、まず皿の中を覗き込む。
2026.8.18

今宵も餃子トリプル。
先週末の終戦記念日の余韻が、まだ舌の裏あたりに残っているのだろう。気づけば、戦争のことを考えていた。
戦争の悲劇のひとつは、役者が分かれていることだ。戦場で実際に血を流す者、後方でそれを命じる者、そして遠く離れた場所で恩恵だけを受け取る者、この三者が、決して同じ顔をしていない。泥を被る手と、算盤を弾く手は、いつも別々である。
この前提に立って、大義の見えないアメリカとイスラエル、イランの戦争を眺めると、何が浮かび上がってくるか。
見る者によって違うだろう。だがわたしの目には、権力と金を目当てにした、ひとつのビジネスのように見えてくる。「平和維持のため」という理由は、並んだ理由の中でどうにも影が薄い。これまでの国家の振る舞いを思い返せば、その一言はほとんどナンセンスにすら響く。
数字をひとつ。アメリカは一国で、世界の名目GDPのおよそ四分の一、二十五パーセント余りを占めるという。資本主義という渦の、まさに中心にいる。世界一の軍事力を手に握り、利権を存分に得て、それでもなお、自分たちの立ち位置を固めるために動き回っている。
これは、暴力ではないのか。
砲弾を撃ち込むだけが暴力ではない。渦の中心は年々きつく凝縮し、当のアメリカ国内でさえ、貧しい者を増やし続けている。中心が太れば太るほど、外縁は痩せる。渦とは、そういう構造をしている。
この流れは、どこかで逆さに回さねばならない。
だが……と、ここで箸が止まる。ほとんどの人間は、右に倣えと横目で隣を確かめ、長い物には黙って巻かれ、虎の威を借りる狐の側に、そっと身を寄せてしまうのではないか。「長い物には巻かれろ」の景色が、ここでも顔を出す。渦に逆らうより、渦に乗る方が、ずっと楽で、ずっと暖かいからだ。


