top of page

Dugup? Ver.の「走ることについて語るときに僕の語ること」



なぜ苦しいを思いをしてまで走るのか、、、? 最初は健康のためと思って走りはじめてみたものの、続けるのはキツい、、、。マラソン大会を目標にして、週3回の練習をするとなると平日は仕事の前か終わりに1時間(9〜10km)、週末は1.5時間(10〜15km)は走ることになる(その前後には体操とシャワーの時間もプラス)。そして、練習を経ての大会本番はさらにキツい。全力を出し切るので大会当日からの1週間は筋肉痛 & 関節痛で脚が悲鳴をあげるといった具合だ、、、。脳内麻薬で逆に気持ち良くなると噂のランナーズハイまでは程遠い、、、。さらにいうと個人的に大会でいい記録を残したいわけでもなく、誰か特定の個人と勝負しているわけでもない。


さて、冒頭の問いについて、作家の村上春樹さんは自著「走ることについて語るときに僕の語ること」の一節でこのように述べている。

 

そんな人生がはたから見て -あるいはずっと高いところから見下ろして- たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。

たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則としてそういう効率の悪い営為のサイクルがいつまで現実的に維持できるものか、もちろん僕にもわからない。でもここまでなんとか飽きずにしつこくやってきたんだもの、とにかく続けられる限りは続けてみようじゃないかと思う。長距離レースが今ここにある僕を(多かれ少なかれ、良かれ悪しかれ)育て、かたち作ってきたのだ。それが可能である限りは、僕はこれからも長距離レース的なものごととともに生活を送り、ともに年齢を重ねていくことになるだろう。それもひとつの筋が通ったとまでは言わないけれど1人生ではあるだろう。というか、今更ほかに選びようもないではないか。

車のハンドルを握りながらふと、そんなことを考えた。

 

そう、おそらく明確な意味や理由などないのではないか?


ダイエットのためなら食事制限という方法もあるし、代謝をあげたいなら筋トレの方が効率が良い。ランニングは時間がかかるから、その時間を子供達と遊んだり、読書をしたり、勉強に充てたほうが有意義では?といった考えもある。最近の流行り言葉でいうとコスパが悪い。


さてさて、私の愛読書である葉隠入門(三島由紀夫著)には、身体を鍛えることについて以下の記述がある。


 

•勝つとは、自分に勝つことだ


成富兵庫申され候は、「勝ちといふは、味方に勝つ事なり。味方に勝つといふは、我に勝つ事なり。我に勝つといふは、気を出て体に勝つ事なり。かねて味方数万の地、我に続く者なき様に、我が心身を仕なして置かねば、敵に勝つ事はならぬなり。」と。(聞書第七)


(訳)

成富兵庫という人が、つぎのようなことをいっていた。「勝つということは、すなわち味方に勝つことである。味方に勝つというのは、われに勝つことである。われに勝つというのは、自分の気力をもってものごとを処理すること、(つまり、強烈な意志力で自分をとりまく不利な条件を有利に変えていくこと)である。つね日ごろ、味方数万の侍のなかに自分につづくものがないほどに、自分の心身をきたえておかないと、敵に勝つことはできない。」と。

 

成富兵庫氏は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。自分の敵は自分という言い回しはよく耳にするが、太平も太平で帯刀など御法度の現代日本においては、戦国時代のような敵など皆無のはずである。どうもピンとこない。


続いて、なぜ人は走るのかについて、レギュラー佐藤氏の回答はこちら。


 

確かめるためかな?自分がまだ走れるってことを。

 

とてもクールである。

ここで再び、なぜ走るか?について考えてみた。おそらく、はじめはそんなに深い意味はないのだ。よさそうだからやってみる、何かを感じるまでやってみる。そしてその何かを感じたらそれに意味を見出してしまう。そんな感じではないだろうか。東洋的で仏教の悟りに近い感じが見えてきた。このプロセスは、自分の座右の銘、


「なんの得もない生き方、それが男の美学」


にも通じている。この言葉は損得では動かなということの美学で、最終的には徳につながるという一聞わかりにくいところがある。 私はハーフマラソンに何度か出場しているのだが、選手として走るその道はいつも人生のように感じられる。ゴールに向かって、年齢も性別も人種も国籍も違うたくさんの人々が一緒に走っている。その走り方だけをみても一人として同じ人はいない。服装やスタイルも多種多様で眺めているだけで本当に面白い。見た目からは想像できないようなすごい走りをする人もいればその逆も然り。そして沿道にはステージ毎にいろんな人が現れて声をかけてくれる。まさに人生の道程を可視化しているようだ。


話を戻そう。なぜ走るのか?それに迫る答えは、悟りに近づくための修行と言えるのではないか?自分はそんな感じがしている。


しかしながら、自分は修行と言えるほどきつい練習をしているわけではない。ただ、悟りには興味があるので、もっと頑張って練習をしようかと思う。


レギュラー佐藤氏とともに走る仙台ハーフマラソンは、2024年5月12日が本番。皆様是非お会いしましょう。





Comments


bottom of page